2010年12月04日

プノンペンの悲しみ 4

共産主義黒書
犯罪・テロル・抑圧――コミンテルン・アジア篇より
第三章 カンボジア・・・目をおおうばかりの犯罪の国で

上記より、引用する。

毛沢東からポル・ポトへいたる系譜は明瞭だ。しかし、まさにこの点で、死のるつぼと呼ぶにふさわしいクメール・ルージュの革命の分析と、いわんやその理解とを困難にする幾多の逆説のうちの最初のものにぶつかるのである。
ほとんど疑いの余地なく凡庸な存在でしかなかったカンボジアの暴君は、気まぐれだが教養ある北京の専制君主と並べるとき、その出来の悪いコピーにすぎなかった。
黒書 改行は、私がした。

この、クメール・ルージュが、歴史に残したものは、何から何まで、血にまみれている。
そして、このことは、単にカンボジアだけの問題ではない。
毛沢東の存在、ベトナム戦争との絡み、などなど、実に複雑である。

だが、それを、検証し始めると、終わらないものになる。
カンボジアの、ポル・ポト政権、クメール・ルージュのみに、焦点を当てる。

結局のところ毛沢東は、地球上で最も人口の多い国に、外国から決定的な援助を受けることもなく、一つの新たな体制を打ちたてる能力を持っていた。しかもその体制の発展可能性は今なお尽きるところを知らない。
他方これとは逆に、長い過渡期―――これはマルクスーレーニン主義の正統理論に組み込まれているはずだがーーーを飛び越して、完結した共産主義を今ただちに適用しようとしたポル・ポトの企ては、おそらくあらゆる時代のなかで最もラジカルな社会変革の企図であったにはちがいないが、これと比較するとき、毛沢東の指導した文化大革命も大躍進も、取るに足らない予習であり、乱暴な予行演習であったように見えるほとだ。
黒書 改行は、私である。

ポルポトの、企図とは、通貨の廃止、二年未満での完全な集団化の完成、所有者階層・知識階層・商人階層総体の壊滅による、社会的分化の廃止、都市を一週間で消滅させて、農村と、都市の間の、数世紀に渡る対立を、解決すること、である。


それにより、ポルポトは、マルクス、レーニン、スターリン、毛沢東よりも、更に高い位置まで、上がれるものと、信じた。

ちょうど、二十世紀の革命がロシア語を、ついで中国語をしゃべったように、二十一世紀の革命はクメール語をしゃべるようになるだろうと考えていたのである。
黒書

個人的野心、野望が、起こした、とてつもない、革命は、自国民の虐殺である。

生存者の証言であれ、研究者の分析であれ、そこで問題にされているのは事実上抑圧だけだ。唯一提出する価値があると思われる問いは、なぜ、いかにして、このような恐ろしいことが起こりえたのか、というものだろう。
カンボジアの共産主義が他のすべての共産主義を凌駕し、またそれらと相違していることは間違いない。
黒書 改行は、私。

1979年、共産主義を打ち立てた、カンボジアは、ラジカルな共産主義と、絶縁した、最初の国である。

そして、ベトナムによる軍事占領が続いた、その後の、十年間、異様な、人民民主主義国家は、イデオロギー的基礎を、ポル・ポトーイエン・サリ一味のジェノサイドの断罪に求めた。

その時期、一部海外に逃れていた、犠牲者は、口を開くように、奨励された。

1992年以降、国連の保護下で、複数政党制が、確立され、アメリカ議会が、膨大な調査基金の支出に同意すると、研究を巡る、物質的条件が改善された。
ところが、それとは、逆に、カンボジア人同士の和解の意思は、クメール・ルージュの、生き残りたちを、政治の舞台に復帰させるところまで、進んだ。

そのために、エリートたちの間に、憂慮すべき、記憶喪失を招くことになった。
つまり、事実を知ろうとするのではなく、隠蔽することだった。

だが、証言することの、すべての危険をものともしない、逃亡した、カンボジア人は、証言することが、最終目的だった。

いわば彼らの粘り強さこそが実を結んだのである。
今こそ全人類が彼らから、たとえば一月ものあいだ、飢えたまま一人でジャングルをさまよったプン・ヤッタイから、たいまつを受け継ぐべきときであろう。
彼は言う。
「カンボジアのジェノサイドを証言するために、何百万という男、老人、女、子どもの死がどのようにして冷酷にプログラム化されていたのかを語るために・・・、どのようにして国が根こそぎ破壊され、先史時代に投げ込まれてしまったのか、そして人々がどのように拷問されたのかを語るために・・・。私は、生き残った人々が絶滅の淵から逃れるのを助けてくれるよう世界に懇願するために、生きていたかったのです」
黒書 改行は、私。

ここで、カンボジアが、革命まで、行き着いたのは、地理的要素が、大きいということだ。

ベトナム、ラオスと長い国境を持つ。
そして、1964年以降の、拡大を続けた、ベトナム戦争によるもの、である。

その過程については、前回の、旅日記に、書いたので、省略する。

前回、書けなかった、後半の部分を、これから、書くことにする。

カンボジアにおける行き過ぎた残虐さを考えるとき、今世紀の他の大量犯罪についてと同じように、特定の人間の精神錯乱の側にか、それとも人民総体が呆然とするほどまでに陥った幻惑状態にか、そのどちらかに究極理由を求めざるをえない誘惑にかられる。
もちろんポル・ポト個人の責任を軽減することなど論外だが、カンボジアの民族史も、国際共産主義も、いくつかの国々(中国をはじめとする)の影響も、この問題と無関係なものとして葬り去るわけにはいかないだろう。
これらの競合が生み出した最悪の本質というほかないクメール・ルージュの独裁は、明確な地理的・時間的な文脈に規定されていたと同時に、以上の三つの次元の合流点にこそあったのだから。
黒書 改行は、私。

さて、私は、実際に、一月に、キリングフィールドを、慰霊し、今回は、ウドンという、古都での、虐殺の現場で、慰霊を行った。

だが、直接、カンボジアの人たちから、話を聞くことは、出来なかった。
それは、私の、優しさである。
もし、私が、ルポライターとして、取材するという、勇気ある者ならば、道端で物乞いする、老人たちに、声を掛けても、当時の、状況を、尋ねるだろう。
しかし、私は、出来なかった。

およそ、五十代の人たちは、当時は、十歳前の、年齢であり、その様子を知っているはずである。しかし、聞くことは、出来なかった。

思いやり・・・

いや、あまりに、惨い時代を生きていたからである。
裏切り、密告、自分の命のために、人を犠牲にする・・・
そんな話しを、誰が、するだろう。

ウドンの慰霊碑も、キリングフィールドと同じように、犠牲者の、遺骨が、晒されていた。日本人の感覚としては、それが、理解出来ないのである。

せめて、遺骨を土に埋めた、その上に、慰霊碑を建てる、はずである。

誰のものか、解らないが、未だに、その遺骨の、家族や、親類、友人、知人などが、いる場合が多々あるだろうに・・・と、思う。





posted by 天山 at 00:00| プノンペン二度目の悲しみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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