日本も、その影響を受ける。
ただ、日本の場合、他国と違ったのは、社会主義や共産主義に対して非常な恐怖心を抱いていたということにある。そのため、日本における社会主義の入り方は屈折したものになった。
渡辺昇一
それは、マルクス主義者たちが、天皇制を廃止する、ということを、掲げたからである。
当時の、日本人にとって、それは、恐怖心を抱かせるのに、充分だった。
それは、その五年前に、ソ連共産党が行った、君主制廃止の、残忍さである。
ロシア革命において、ロマノフ王朝が、その愛馬にいたるので、ことごとく、惨殺されたことは、日本でも、知られていた。
日本共産党が、皇室の廃止、を唱えれば、誰もが、ロシア革命と、同じことを、と、思ったのである。
明治維新が世界史上、類を見ないほどの成功を収めたのは皇室があったからだということは、誰もが認めざるをえない事実である。
渡辺
当時の、国民の皇室に対する、一体感は、まことに、強かったのである。
皇室は、日本の総本家であるという、意識。
更に、共産党が、被搾取階級と呼んでいた、東北の貧農の家にも、天皇皇后陛下の、写真が、飾られていたほどに、崇敬の思いが、強かったのである。
皇室をなくするという途端に、戦前の共産党は、大衆の支持を完全に失い、史実上消えたのである。との、証言がある。
ナチスの思想が人種差別とセットになっているように、共産主義イデオロギーはつねに暴力とセットになっているからである。人種偏見のないナチズムが考えられないように、暴力や大量殺人のない共産主義などありえないのだ。
渡辺
ソ連では、ロシア革命で、ロマノフ王朝一族が、惨殺され、その後、スターリンの統治下では、数百万人もの人が、粛清されたり、シベリアへの強制収容所に送られたのである。
中国では、一千万人を超える、犠牲者が出た。
ベトナムも、然りで、南ベトナムが解放された後に、恐れるべき大虐殺が起こった。
カンボジアでも、然りで、史上最悪の高率で、国民が殺されたのである。
さて、左翼の共産主義、社会主義者の代わりに、日本では、右翼の社会主義者たちが、大きな力を持つことになる。
彼らは、天皇という名を使い、日本を社会主義の国家にしようと、考えた。
それが、敗戦後、国家主義者、軍国主義者と呼ばれた。
彼らは、あくまでも右翼の社会主義者なのである。
渡辺昇一
その代表者が、北一輝である。
国体論及び純正社会主義、という、主著がある。
左翼思想家たちも、もろ手を上げて、それに賛成したという。
それに、飛びついたのが、特に若い軍人たちである。
日本の体制に対する、義憤からのものである。
資本主義と政党政治。
一部の財閥が、巨利を得て、農民は、飢えている。
政治家たちは、目先の利益だけを追い求める。
天皇を戴く社会主義が、理想に見えたのである。
そこで、生まれたのが、皇道派と、統制派である。
この二派は、抗争を繰り返した。
彼らはともに、天皇の名によって議会を停止し、同時に私有財産を国有化して、社会主義的政策を実行することを目指していた。そうすることで、ホーリー・ストーム法とブロック経済による大不況を解消し、“強い日本”を作ろうというのである。両者の間で違ったのは、日本を社会主義化するための方法論にすぎない。
渡辺
皇道派は、二・二六事件を起こした。
テロ活動によって、体制の転覆を狙った。
彼らは、昭和維新を唱え、天皇を戴く社会主義革命を目指した。
対して、統制派は、軍の上層部に作られ、合法的に、社会主義を実現することを、目指した。それ以外は、皇道派と、変わらない。
生き残ったのは、統制派である。
ニ・二六事件は、以前書いたように、天皇が断固たる、決意で、反乱軍が、鎮圧されたからである。
だが、それは、統制派の、チャンスだった。
陸軍の主導権を握ったのである。
それ以後、日本全体が、統制派に、動かされることになる。
そこで、以前に書いた、統帥権の干犯問題によって、首相も、内閣もない、明治憲法の欠陥が、露呈して、憲法上、政府は、軍に干渉できないことになっていたのである。
この軍部の台頭に、呼応する形で、社会主義に傾倒していったのが、官僚たちである。
官僚の仕事は、自由経済であればあるほど少なくなり、統制色が強まるほど増えていく。大恐慌前の日本経済の基本は、言うまでもなく自由主義であり、国家は財閥の活動を奨励こそすれ、統制しようとはしなかった。必然的に、役人の出番は少なかったのである。
渡辺
大恐慌になってから、役人たちは、われらの出番だと、考えるようになった。
政治家に任せておけない・・・
この官僚たちを、新官僚と呼ぶ。
彼らは、天皇の官僚を自称した。
天皇の軍隊があるならば、我らも、天皇に直結して、政治家から、独立して、行動できるというのである。
彼らは、軍部と結託して、日本の政治改革を、行おうとしたのである。