浴衣を脱いで、シャワーを浴びて、タイスタイルに着替える。
コータは、夕方から、友人の家に泊まりに行くので、私一人である。
夕食までは、休む。
疲れ過ぎると、疲れたことを、忘れる。
一週間、毎日の予定。こんな旅は、初めてである。
観光旅行ならば、なんでもないだろうが・・・
寝るしかないと、思うが、眠られない。
ただ、ベッドに、体を横たえるだけ。
マッサージに行く気も、起きない。
更に、旅を振り返るのは、早過ぎる。
明日、夕方五時半の飛行機で、バンコクへ、向かう。
そこで、一泊して、深夜空港に行き、朝の三時過ぎの、搭乗手続きを、待つ。
帰国を前にすると、次のことを、考える。
出来れば、今年、11月から、12月にかけて、バンコクに来て、そこから、カンボジアのプノンペンに行きたいと、思う。
更に、来年の、三月は、タイの、メーソートにて、ミャンマー難民の子供たちに、衣服を渡したい。
ミャンマーの、マンダレーに、慰霊に行きたい・・・
体が、疲れているのに、頭が、冴える。
日本では、毎日、物を書いているせいか、頭の中で、文章を作っている。
・ ・・であり、・・・だから、なになにだ・・・
それが、終わらない。
更に、疲れる。
辻さんからも、千葉君からも、連絡が無い。きっと、寝ているはずだ。
今夜は、ナイトバザールを回り、その中で、食事をする。
今回は、初めての慰霊の場所である、野戦病院跡と、お地蔵さんの寺である。
それを、思い、次の慰霊は、河原で、行いたいと、思った。
どこにあるのか、解らない、遺骨の主の、ために、河原での、追悼慰霊の儀を、行う。
ビルマ戦線に、出た、日本兵の数は、十万人以上であり、その半数以上が、戦死、病死、餓死・・・そして、自殺も、多かった。
自殺とは、自決でもある。
インドの、ビルマ国境近くの、インパールにて、イギリス軍を追い出そうとしたが、撤退を、余儀なくされた。
その際に、斃れた兵士が多い。
何せ、ビルマの山々を抜けて、タイを、目指したのである。
動けなくなった兵士は、頼むから、ここに、置いていってくれと、言った。
皆に、迷惑を掛ける。
そして、皆が、去ると、自決したのである。
更に、累々と、歩く道端に、斃れた。
その、死体を、置いて、歩き続ける兵士たち。
その、思いは、どんなものだったのか・・・
敗戦後、65年を経て、人々は、戦争を忘れる。
私は、忘れないように、追悼慰霊を行う。
外が、薄暗くなってきた。
そうすると、少しは、涼しくなる。
チェンマイの風、とも、お別れである。
コータが、出かけて、夜は、三人で、食事をする。
辻さんも千葉君も、この辺りは、初めてである。
知った振りして、私は、案内を始めた。
まず、市場に行き、食事をする。
タイ料理である。
汁そばを、食べることにする。
しかし、その量は、少ない。日本のラーメンの、三分の一。
千葉君は、大盛りにしたが、それでも、たいした量ではない。
辻さんは、タイに来ると、俄然、奢るという。
ここは、私が・・・
そう、安いからである。
だから、いつも、ここは、私が・・・
三人で食べても、日本円にして、300円と少し。
そして、ナイトバザールを歩く。
一軒の、お香屋さんを、見つける。辻さんの、求めていた、お香が、沢山ある。
私も、チェンマイ名物の、お菓子や、ナッツを買う。
そして、更に、別の、食べ物屋市場に行き、デザートを食べることにする。
私は、アイスクリームで、二人は、ココナッツジュースと、辻さんは、バナナのなんとか・・・で、とても、甘い。一口食べたが、あまりの、甘さに、うんざりした。
私は、まだ、何となく、腹の満たしがないので、もう一度、麺類を注文するために、立った。食堂街のような、場所で、チケットを買い、それで、注文して、払う。
31バーツ、90円である。
それで、十分になった。
ぶらぶらと、歩いて、ホテルに戻る。
千葉君は、少し周囲を散歩するという。
店の中に、引っ張りこまれないようにね・・・と、私が言う。
カラオケ屋がある。置屋もある。スリもいる。
暗闇は、気をつけて・・・というものの、どこでも、暗闇は、注意である。
チェンマイの、夜は更けていく。
本当に、ご苦労さんでした、である。