2010年10月14日

天皇陛下について 70

半世紀以上前、世界を戦雲が覆う中、懸命に戦争回避を図った人間たちがいた。生命の危険を冒し、敵・味方を超えて連携した人々だった。
しかし、その彼らも、時代の流れを変える事は出来なかった。
日本は太平洋戦争に突入し、国中が焦土と化し無条件降伏した。日本人は初めて、外国の占領を体験し、良心と信念に従った者の記憶は、人知れず埋もれてきた。
歴史の重さ、はかなさ、虚しさ、全てが凝縮されたような想いに襲われていた。
しかし、戦争回避に向けて築かれた人的つながりは、戦後になって重要な意味合いを持つことになる。戦前、水面下で連携していた昭和天皇、吉田茂、白洲次郎たち。敗戦と占領という舞台で、彼らは第二のドラマが幕を開けるのであるーーー。
英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎

米国政府は承知していたはずだ。私がこの文書の存在を教えられた時、国務省は、これを極東問題の理想的解決、ユートピアとして扱っていた

われわれは米国と密接に連絡、協議してきた。しかし、最後の決断と行動は、米国政府が独自に取ったという事を、未来の歴史家は認識すべきである
1943年9月18日 英国外務省報告

文書とは、ハル・ノートのことである。
アメリカは、日本が、ハル・ノートを受け入れないことを、知っていた。
知っていながら、要求を突きつけた。

結局、クレーギーの最終報告書は、外務省のレポートと併せて、国王を含む要人に、配布された。
そして、戦争に至る英米政府の責任は、巧妙に、ぼやかされた、のである。

チャーチル首相は、歴史家としても、知られ、戦後は、第二次大戦回顧録、にて、ノーベル文学賞を受賞した。

反する、クレーギーの最終報告書は、注目されず、片田舎のコルチェスターと英公文書館に眠っていたという。

1998年、今上天皇が訪英した際に、クレーギーの息子、その孫の、親子が、ロンドン市内のレセプションに、招待された。

その時に、二人を含む、出席者に、天皇は、1953年の、エリザベス女王の戴冠式出席のために、初めて訪英したときの思い出を、語り掛けたという。
以下
当時は平和条約が発効してちょうど一年後のことであり、英国民の日本に対する感情の厳しいときでもありました。しかしその中にあってサー・ロバート・クレイギー・日本協会会長・・・はじめ会員の温かいおもてなしを受けたことは心に残るものでありました。日英関係の断たれた絆を修復するために力を尽された人々の努力を忘れることは出来ません
1998年5月29日

軽々と、天皇の戦争責任を口にする者たちに、言う。
歴史の事実を知ることである。

これに関して、更に深く、私は、追及してみたいと、思う。

以前に書いた、大筋の、流れを前提にして、読むことで、更に、深く理解されることと、思う。

天皇陛下について、であるから、歴代の天皇陛下、更に、古代史からの、天皇について、書く予定である。

しかし、最後まで、書ききれるか、どうかは、解らない。
富士王朝からの、天皇の歴史を書くまでと、思うが、死ぬまでに、書くことができれば、幸いである。

もし、天皇が開戦の詔勅に判を押すだけの、そけだけの存在だったにしても、その「御名御璽」がなければ、国家の国民への戦争命令が発動されないのである。そうだとしたら、そういう重大な命令に判を押したことへの責任がある。しかし、昭和天皇は軽々しく判を押して済ますような無責任な人ではなかった。それゆえに、開戦に同意した(同意せねばならなかった)ことへの、みずからの責任を十分に認識していた。
畏るべき昭和天皇 松本健一

ポツダム宣言が発表されたとき、かつて、三度首相を勤めた、近衛文麿は、敵から無条件降伏を突きつけられた天皇は、戦争責任を負って、退位、もしくは、自決すべきだと、激しく、述べた。

もう、こうなったら、天皇は退位するべきですね。そうすることによって皇室を護ることができるでしょう。やはり、陛下にはこの戦争に責任がある。戦艦に御座乗いただいて、戦死していただくのが、一番よい。自決していただくのが、もっとよいと思いますがね。そのうえで国民も、軍も、無条件降伏をすることに納得がゆくでしょう。

松本氏は、この発言に、近衛の、みずらの責任を回避する、方便に近い言い方だという。

近衛こそが、東条英機にもまして、戦争へと、日本を引きずり込んだ、政治責任者であるというのだ。

天皇の宮家に連なる、五摂家の一つである、近衛家の当主たるものとして、天皇陛下に対し奉り、あまりに、不遜な言葉である。

近衛の、考え方は、戦争の責任を、すべて昭和天皇一つに還元して、守るべきは、皇室と、そのシステムであり、一人の天皇の地位や命なのではないということである。

昭和天皇御自身は、一度、退位を考えている。
しかし、はじめは、内大臣だった、木戸幸一が、これに反対し、のちには、首相の吉田茂が、断固認めなかったのである。

松本氏は、天皇が近衛の言うような、自決を一度も、考えなかったのは、開戦に際して、出来る限り、それを回避しようと努力し、それでも、立憲君主として、内閣が決めたことには、拒否を言わないという、立場を正しく守ったと、考えたからだと、言う。

近衛は、GHQに、戦犯として逮捕されることを嫌い、服毒自殺をした。
その手記に対して、昭和天皇は、
どうも、近衛は自分にだけ都合のよいことをいっているね
と、仰せられたという。

近衛の手記には、戦争に突入し原因を、統帥権の独立、つまり、軍の統帥が、国務から、独立して存在することが、原因だと、見ている。

そもそも統帥が国務と独立して居ることは、歴代の内閣の悩むところであつた。今度の日米交渉に当っても、政府が一生懸命交渉をやっている一方、軍は交渉破裂の場合の準備をどしどしやっているのである。しかもその準備なるものがどうなっているかは我々に少しも判らぬのだから、それと外交と歩調を合わせる訳に行かぬ。船を動かしたり動員したりどしどしやるので、それが米国にも判り、米国は我が外交の誠意を疑うことになるという次第で、外交と軍事の関係が巧く行かないのに困ったものであった。
旧仮名遣いを改めて書いた。

当時の、政治家は、この統帥権の独立に、大いに悩んだと言う。




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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