2010年10月11日

天皇陛下について 67

1939年9月、ドイツ軍が、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が、始まった。

フランスが、ドイツに、ソ連が、フィンランドに開戦して、戦火が広がる。

1940年3月28日
帝国ホテルにて、日英協会主催の昼食会が、行われた。
そこで、クレーギー大使が、演説した。

日本と英国は、同盟を結んだ時期、並外れた繁栄と相互協力を実現してきました。・・・
現在の両国間の争いは、多くは誤解と虚偽に伝聞によるもので、それを第三者が増幅させています。
日本と英国は共に、大陸の縁に位置する海洋国家であります。方法こそ違え、両国は共通の目標を目指しています。それは、平和の維持と外部の破壊的影響から制度を守る事であります。

続いて、吉田茂が、スピーチに立った。
吉田も、日英同盟の時代、極東で平和が維持されたことを、強調した。

だが、国内の、情勢は、それとは、完全にかけ離れていた。

反英デモが、繰り広げられた。
内務省、各府県が、指導する、総動員のデモである。
各地の集会で、蒋介石への英国の支援が、非難され、言論界も、反英一色だった。

クレーギー大使のスピーチは、当地で驚きを持って受け止められている。特に「日英は共通の目標を目指している」などの部分で、米国国務省は全文を入手したい意向だ。もし、これが今後、英米は極東で協調行動を取らないとの意味なら、極めて重大だとしている。
1940年3月30日 英国外務省報告

クレーギーの、発言は、米国内では、批判の元となった。

ロイター通信ワシントン支局が、反発の記事を掲載した。
クレーギー大使のスピーチは、米国の孤立主義者が抱く英国への不信を高めたとする有力者がいる。英国は「極東のミュンヘン」を認める事で、これまで米国が中国に行ってきた支援を台無しにしかねない。

ミュンヘンとは、1938年9月、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を、ドイツに認めた件である。
その会議で、ヒトラーは、戦争に訴えてでも、割譲を迫った。
これに対し、英国の、ネヴィル・チェンバレン首相らが、これ以上の領土要求をしないという、条件で、認めたのである。
これが、ドイツを、舞い上がらせ、第二次大戦の、要因の一つとなったのだ。

日本との、宥和政策を打ち出した、クレーギーは、極東で、同じ過ちを犯そうとしていると、判断された。

英国議会でも、この問題が、取り上げられた。

クレーギーは、英国が、対日宥和政策に転じたとは、一言も、言っていないのである。

この、発言が、問題視されたのは、その前月に、米国のジョセフ・グルー大使が、中国の日本軍の行為を、激しく非難する、スピーチを行っていたからで、その内容は、クレーギーとは、全く対照的だったからだ。

更に、日英協会昼食会の直後、南京国民政府が成立した。
これは、日本軍の指導で作られた政府であり、国際社会からは、傀儡政権と、見なされた。

1940年4月9日、ドイツ軍は、ノルウェー、デンマークに、5月10日には、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに、侵攻した。
そして、ドイツ軍は、フランスの最終防衛線、マジノ・ラインを突破した。

ヒトラーの、ドイツ軍は、欧州全域を、席巻しつつあったのだ。

日本は野心的で冷酷な軍人が支配する、危険な潜在国家である。・・・クレーギー大使は、われわれが友好的に接すれば、日本の危険性を取り除けるとの固定観念を持っている。だが、宥和政策で日本の軍国主義者が変質するとは思えない。
1940年5月22日 英国外務省報告

この頃の、英国政府は、一変していた。

日本は、アジアを蹂躙し、英米に戦いを挑む軍国主義国家である。その肩を持つ、クレーギーは、日本の同調者であると、突き放された。

その、直前に、英国の、首相が、ウィンストン・レナード・チャーチルに、変わっていたのである。

チャーチルの名を、世界に広めたのは、その演説である。
首相就任演説を、英下院で行った。

われわれは、どんな犠牲を払ってもこの島を守る。われわれは海岸で戦い、水際でも戦う。われわれは野で、街頭で、丘でも戦う。われわれは決して降伏しない。たとえ、この島やその大部分が、征服され飢えに苦しもうとも、私は降伏を信じない。

更に、再び、議会で、演説した。

われわれは各自奮励して義務を遂行しようではないか。そして、大英帝国がなお千年続くものならば、その時、人々はこう言うであろう。「これが彼らの最良の時であった」と。

まだ見ぬ大英帝国の子孫が、今の自分たちの戦いを見ている。

チャーチルの言葉に、意気消沈した国民は、奮い立った。

日本の政局は、激動していた。
それは、以前に書いている。

クレーギー大使は、第二次近衛内閣の報告書を、本国に送った。

今度の内閣は、明らかに米内内閣より親英の度合いを減らすだろう。近衛はファシストではないが、全体主義を好む傾向があり、今後、枢軸国に接近していく。・・・ドイツに近い東条陸軍大臣は、その手法を賞賛している。厳格で知られる彼なら、青年将校を抑えられるかもしれないが、同時に彼らの志に共鳴している恐れもある。
1940年8月13日 英国外務省報告

近衛内閣の、ドイツへの傾倒に対して、英国政府は、警戒を露骨にした。
彼らが、最も、注目したのは、新外務大臣、松岡洋右だった。

新外相の松岡洋右は、最近の前任者とは大きく異なるタイプの男だ。強烈なナショナリストで、政党政治に抜き難い反発心を抱いている。・・・率直で多弁な男だが、その多弁が時にトラブルを招く場合もある。
1940年9月11日 英国外務省報告

更に、クレーギーは、
ここ数年、日本で広がった子供じみた反英感情の発露を、松岡は忌み嫌っている。それを声高に批判したことで、彼は急進派内での評判を落としてしまった。・・・松岡はかつて自分に「お互い意見が異なっても、紳士らしく異なろうではないか」と語ったことがある。
松岡暗殺の危険も存在する。だが彼は、警備の警官の給料は自分のために命を投げ出すほど高くないとして、護衛を断っている。
同報告




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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