そこに、立ち寄った。
中に入ると、丁度、瞑想指導の、ご住職がいらした。
何の飾りもない、タイの僧侶の衣を着ていた。
自然体で、どこにも、力が入らない姿勢である。
自然と、同化しているのである。
私たちは、小西さんの案内で、岩場の瞑想場所に、向かった。
大きな、磐穴である。
一人の僧侶が、瞑想をしている。
私たちは、その、大きな磐の口の前に立ち、中を眺めた。
そこに立つと、まず、息がしやすい。
そして、少しすると、体の弱っている場所に、痛みが起こる。
私は、目の奥から、側頭部である。
鼻が通るのである。
瞬間、この場所では、病が、治ると、直感した。
ちなみに、古神道では、山の中の、修行を、危険視する。
とても、危ないのである。
山の霊的存在に、憑依されたり、とんでもない、霊能力を得たりする。
滝行などは、最悪である。
しかし、この場所は、入り口が広く、公開されている。
隠されているのではないから、安全であると、感じた。
息を、意識できる。
即座に、息遣いを意識できるとは、凄い場所である。
日本でも、パワースポットと呼ばれる場所があるが、これほど、息を意識できる場所は、少ないし、大半の場所、勘違いが多い。
気が付くと、他の皆は、次に移動していた。
私も、彼らを追いかけた。
建物の中で瞑想する、場所に案内された。
そこには、誰もいない。
が、しかし、私には、二名、あるいは、三名の気を感じた。
つまり、霊体になった、方々が、瞑想していると、感じた。
そのことは、誰にも言わない。
日本の、修験道の場所には、そういう、霊体が多い。
死後も、その場所にて、修行するのである。
それは、あまり、良いとは、言えない。
修行自体に、囚われているからだ。
つまり、自縛である。
だが、あの、洞窟は、素晴らしかった。
多くの瞑想希望者が、やってくるという。
初期仏教の頃の、瞑想法を、受け継いでいると、いう。
つまり、釈迦ブッダの瞑想である。
それが、宗派、宗教を超えて、世界に広がっているらしい。
先の、住職様は、その、指導者の中でも、特出している。
宗教、特に、仏教は、行が、中心の教えである。
思想ではない。
行為が、先行する。
更に、瞑想法は、禅とは、違う。
日本の禅は、中国禅である。
インドの、ヨーガ、ブッダの瞑想法とは、異質なものである。
言葉が、先に来るものではない。
感じることが、先に来る。
解らないという言葉があるが、解らないことは、言わない。感じることなのである。
瞑想とは、感じる力であり、更に、同化する力である。
ただし、我というものを、失わない。
我というものは、とでこにも、無いという、詭弁は、言わない。
ただ、その我が、変容するのである。
兎に角、小西さんの、瞑想修行の場を、見ることが、出来たのが、幸いだった。
車に乗り込み、更に、山の中に入る。
路は、次第に、揺れる。
山道だらだら・・・
村の入り口に入ると、象の出迎えを受ける。
カレンの男たちは、象使いでもある。
すぐ目の前の、象は、迫力がある。
私は、メロンの食べ残しを、象の鼻に渡した。
その、鼻に、巻かれると、大の大人でも、危ない。
そのうちに、犬が出てきた。
鶏が出てきた。
更に、黒い子豚が出てきた。
いよいよ、カレン族の村である。
懐かしい風景である。
私は、二年前に、来ている。
ああーーーー懐かしい。