2010年10月09日

天皇陛下について 65

私は、天皇陛下について、書いている。
昭和天皇だけの話しではない。

ただ、昭和天皇ほど、世界的に知られた天皇陛下は、いない。
それでは、世界的に、どれほど、昭和天皇は、興味や関心を、持たれたのか。

国内の資料だけでは、それは、分からない。
そこで、公開された、イギリスの秘密文書から、天皇陛下を観察したものを、見ることにする。

英国機密ファイルの昭和天皇 徳本栄一郎著、から、それを取り出す。

はたして日本は、国家として統一した意思を持っているのか。昭和天皇は、軍や政府を掌握しきれているのか。
盧溝橋事件やヒューゲッセン事件を経て、英国政府は疑念を抱きはじめた。
秩父宮が日本へ出発した直後の1973年9月24日、英国外務省が作成したレポートは、彼らの疑念を如実に表している。天皇を頂点とする、日本の政治システムの分析だった。
徳本栄一郎

憲法の理論上、大元帥の天皇は陸海軍を統帥しているが、実際には、皇族や宮内庁省、軍部の意見を受けて行動する。・・・したがって、天皇を取り巻くアドバイザーが、その意思に影響を及ぼし、日本の政策を決定していく

昭和天皇の性格分析
周囲の人間の操り人形とならないためには、強い個性が求められるが、今の天皇は、それを持ち合わせていない。彼は気立てが良く、従順な性格だが、特に知的で明敏には見えない
天皇は弟の秩父宮のような自由を与えられず、自分の意見を形成する機会も持てなかった。・・・・大正天皇が発狂した時、彼は摂政に就任し、二十五歳で天皇に即位した
個人としての天皇は、自由主義や穏健主義の傾向が見られる。重大局面では、軍部に対抗して行動し、1932年、上海からの日本軍撤兵は、天皇によるところが大きかった
1937年9月24日 英国外務省報告

イギリスは、明治維新の頃から、情報を収集し、日本の権力構造を、見抜いていたという。

上記を見ると、天皇陛下は、強い意思や権力を持たないという、分析である。

1938年2月、新しく就任した、外務大臣、エドワード・ハリファックス卿の元に、10ページの文書が届けられた。
日本支配における水面下の分裂、その内政・外交上の影響、である。

そこには、宮中での、昭和天皇と、秩父宮を中心とする、二大勢力が対立を深めているとのこと。

更に、事態を複雑にしているのは、大正天皇の皇后である、貞明皇太后の存在である。

彼女は、秩父宮を贔屓し、昭和天皇には、しばしば政治的助言を与えているというものである。

その上で、昭和天皇は、周囲の環境の産物として、指摘された。
自分の地位の危うさ、目前の見えざる敵の存在に、昭和天皇は精神的に不安定になり、疑い深くなっている。・・・ニ・二六事件は、力ずくで彼らを追放しようとして失敗した企てだった
1938年3月12日 英国外務省報告

報告書は、秩父宮を黒幕と名指しはしないが、彼を擁立して、体制変革を狙う勢力が、宮中に存在すると、結論づける。

人間、天皇の、その危うさ・・・
激動の歴史の中にある、昭和天皇というお方の、状況が、実に、危ういものであることを、見せ付ける。

ここには、大君であらせられる、天皇陛下の・・・
という、姿は、無い。皆無である。

当時の、在英大使は、吉田茂である。
吉田は、昭和天皇の側に立つ人間である。

しかし、イギリスは、その対応にも、不信感を抱いていた。

日本大使に関する限り、その文書が、日本に自由主義政府を作る成算を高めるというのはナンセンスだ
吉田は、日本ではあまり重く見られていない。彼が帰国を希望している事は理解できない。それにより、何を達成しようとしているのかも分からない
1937年1月27日 英国外務省報告

吉田は、中国問題で、日英の協調による、十の具体案を提出していた。
日英協調の協定締結を、強く望んでいたのである。

そこには、英米との和平を望む、リベラルな穏健派が存在し、その中核が、天皇陛下であると示唆するものである。

だが、イギリスは、日本軍の中国での行動を見て、穏健派が、本当に存在するのかを、探っている。

そして、決定的なことが、起こる。

1937年6月2日、吉田が、第二次覚書を、英国外務省に提出した。
日本は、中国華北地方を分離し、外国利権を排除する意図はない。日英の通商、財政面での協力を進めることが、柱だった。

しかし、折衝が続く中、7月7日、盧溝橋事件が発生し、日中は全面戦争に突入する。
中国中枢への、日本軍の南進は、英国権益への挑戦を意味した。

すべてが、水の泡となった。

吉田は、本国から正式の指示ではなく、上層部の人々から非公式、個人的に、英国の仲介を探るように指示されているようだ。・・・日本の華北や上海での英国民の扱いを見ると、英国が日本を経済支援すべきとの吉田の憶測はナイーブである。現地で一体何が起きているか、彼は無知に違いない
1938年4月13日 英国外務省報告

確かに、吉田の背後には、天皇をはじめとする、英米協調派が存在するが、前年からの、日中戦争の経緯を見ると、東京の政府と、現地の日本軍は、全く意思が統一されていないとの、判断である。

何故、大戦に到ったのか・・・

歴史は、必然的なものであると、仮定する。
どれほど、人間が、心を砕き、和平を望んでも、歴史が、それを、許さないとしたら・・・

いまだ、誰も、そのように、考える者がいない。
それで、私が言う。

様々な、分析をする。
そして、それが、実に有意義に、生きる場合がある。
しかし、生きない場合もある。

私は、そう思う。

イギリスから、見れば、天皇陛下も、一つの駒である。

実際、戦争責任などとは、実に、あはれで、愚かなことである。

ただし、人間の英知による、努力を否定するものではない。
運命論を言うのではない。




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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