2010年10月05日

チェンマイの風 5

職業訓練施設から出た、私たちは、初めて訪れる、メーリム寺の境内にある、戦没者慰霊の、お地蔵さんを訪ねた。

しばし、車に揺られる。
この、揺れが、とても、疲れることになるのだが、まだ、緊張感があり、あまり感じないのである。

昨日の、車も、おおよそ、五時間であった。
そして、本日である。

少しばかり、場所を探すのに、時間がかかった。

ようやく、お寺に到着して、お地蔵さんの場所に向かう。
お寺の境内であるから、静かに行為しなければならない。

数名の、タイ人もいた。

皆、笑顔で、迎えてくれた。

その辺りにも、日本兵の遺骨が、多く発見されたという。
お地蔵さんを建てられた方は、生き残りの方の奥様である。
ご主人、亡き後、平和を願って、建立されたと、聞いた。

まず、そのお地蔵さんと、横にある、祈念の言葉を読む。

可愛らしい、お地蔵さんである。
だが、残念なことに、魂入れが、されていないようである。

タイのお坊さんが、立ち会ったというが、特別なことは、しなかったようだと、見た。

インパール作戦の、日本兵が、いかに、北部タイで、亡くなったかを、また、知ることになる。

インド、インパールから、ビルマを越えて、皆、チェンマイを目指した。しかし、チェンマイまで、辿り着けずに、力尽きて、亡くなったのである。
北部タイ全域に、広がっている。

慰霊碑は、そこで、祈るためのもの。
そして、慰霊碑は、管理されなければならない。

でなければ、不浄な霊的存在が、そこに、留まることがある。

何もしない前の、写真を撮った。
それを、見ると、矢張り、不浄霊の存在が、確認される。

タイでいうところの、ピーという、霊的存在である。

タイでは、至る所に、ピーの祠がある。
家々に、それが、ある。
そこに、供物を捧げて、鎮まるように、願うのである。

町全体の、ピーの祠から、村全体もの、更に、家々のものと、実に多い。

私は、まず、お地蔵さんの前で、清め祓いを、音霊で行った。
お寺の境内であるから、失礼のないように、である。

静かに、祝詞を上げて、日本兵の亡き人々を、思った。

祓いの、御幣は、使用しない。
最後は、拍手である。

終わった後で、写真を撮った。
最初の写真より、明るい光がある。

誰とも、知らない、亡き日本兵の、慰霊を思い、建立された、慰霊碑は、誰かが、訪れて、慰霊の思い深く祈るべきである。

昨日の、野戦病院跡の、お寺の住職が、タイ・ビルマ戦線の、慰霊のきっかけを、与えたという。

しらべかんがさん、率いる、一団が、慰霊のために、そのお寺を、訪れた時に、住職に言われた。
あなたがた、日本人は、人間であろうか・・・
ここには、多くの日本兵の遺骨が、ある。
それを、そのままにしている、あなたがた、日本人は、それでも、人間なのか・・・

一団の中には、生き残りの方もいたという。
そして、その人の口から、チェンマイに向かう途中で、多くの兵士が亡くなったと、聞く。

最初は、少し穴を掘り、埋葬した。
その後は、土をかけて、埋葬した。
そして、最後は、遺体を踏み付けて、歩いたという。

それほど、大変な道のりだったのだ。

その後、一団は、慰霊の団体を立ち上げて、遺骨収集に専念することになる。

バンカート学校の敷地内にある、タイ・ビルマ戦線戦病歿者追悼乃碑が、その成果である。
私と、コータは、四度そこを、訪れて、追悼慰霊の儀を行っている。

辻さんと、千葉君は、二度目である。

すべての、遺骨が、収集されたのではない。
まだ、どこかに、遺骨は、ある。
しかし、何処にそれがあるのかを知る、タイ人の方々も、亡くなり、解らない。

山川に、野原に・・・
今は、自然と同化して、自然に帰っているだろうと、思う。

その霊位に対して、敬意と、哀悼の意をもって、望む。

忘れては、いないという、気持ちを示す。
それだけでも、十分な慰霊である。

名残惜しく、お地蔵さんと、分かれた。

また、再び、ここに来ることが、出来るように、と、私は、思った。
その辺り一帯が、慰霊の場所である。



posted by 天山 at 00:00| チェンマイの風 平成22年10月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。