というのは、泊り客には、チケットを買うと、二人分が、食べられるという、特典があったからだ。
しかし、支払いの時に、どうも、腑に落ちない。
私が、それを、理解していなかったのである。
要するに、同じ物を、二人が注文すると、一つの料金でいいというもの。
別なものを、注文すると、それぞれの、値段になるのである。
だから、四日目の朝、私は、フロントで、喧嘩をした。
日本語で、大声で、怒鳴った。
説明不足だ・・・
英語で、通訳するコーターに話し掛けて、私の方を見ない。
タイ人は、大声を嫌う。
まあ、そんなことは、いつものこと。
三日目の朝、ホテルのレストランの外で、アメリカンブレックファーストを注文する。
コーヒーを、飲みつつ、タバコを吹かす。
すると、辻さんが、やって来る。
それから、コータが、来た。
最後に、千葉君が、来た。
四人揃って、朝ごはんである。
八時を過ぎると、日差しが、強くなる。
ターペー門沿いを走る、朝のラッシュを眺めながら、食べて、話す。
昨日の、追悼慰霊の話である。
辻さんは、もう一度、行くべきだとのこと。
次回も、藤田さんの、慰霊碑に行くべき。
その理由は、人があまり、訪れない場所であり、慰霊碑として、寂しい感じがするという。
結界を張る時に、辻さんに、塩を撒いてもらった。
四方に、私が、御幣を置いて、その後を、塩で、清めたのである。
そうねーーー
私は、答えた。
私の中には、行くべき所が、沢山あるのである。
ミャンマーの、マンダレーに早く行かなければならないとか・・・
来年のことだから、また、来年考える、という、感覚である。
三人は、おかゆを食べている。
私だけが、一番高い、アメリカンブレックファーストである。
それで、腹が一杯になる量である。
今日、三日目は、サンサーイ県にある、山岳民族子女職業施設での、衣服支援と、メーリム寺の境内にある、戦没者慰霊の、お地蔵さんのところに行く。
女子物であり、寒い季節のものを、大量に持参して来た。
更に、伺う前に、生理用品を買ってゆく。
おおよそ、300名ほどが、そこで、暮らし、学んでいる。
全員が揃うことはない。
今日は、100名程度ということだった。
それなら、間に合うと、思った。
出発は、同じく、午前11時である。
辻さんと、そのための、準備をしなければならない。
衣服の仕分けである。
おおよそ、女子物は、辻さんに、任せていたので、簡単に出来る。
あらかじめ、船便で、送っていたものは、私の勘違いで、二箱ともに、子供物だった。
本当は、一箱が、子供で、もう一箱が、寒い季節の男物だったはず。
しかし、それが、大変助かることになる。
カレン族村用に、用意したものだ。
部屋に戻り、辻さんと、仕分けをする。
辻さんの、大きなバッグと、二つのバッグが、女子物である。
更に、それに、私の持ってきた物を、少し足す。
そして、今日は、千葉君に、ギター演奏をして貰う、と共に、辻さんには、歌ってもらう。
そこで、私が、踊ることになるのか、どうかは、その時に、決めることにした。
前回、私は、次は、日本の踊りを見せますと、言っていたのである。
小西さんは、必ず、早めに来ることを、知っている私は、早めに、荷物を、一階に下ろすことにした。
武士は、遅刻はしないのである。
小西さんは、武士である。
小柄であるが、合気道と、タイの、ムエタイ、つまり、ボクシングを身につけている。
喧嘩をすれば、どんな大男でも、やられるはずだ。
矢張り、小西さんは、11時前に、到着した。
運転手の、おじさんも、同じく、到着である。
早速、支援物資を、車に積み込み、生理用品を買うため、卸売りの、市場に向かう。
生理用品の、見定めは、辻さんに、任せる。
男には、どれがいいのか、分からない。
辻さんは、三種類の生理用品を選んだ。
説明を受けるが、よく分からない。
小西さんが、数を数えてくれた。
それぞれ、600個である。
料金は、約2000バーツ、6000円である。
私は、その他に、小西さんの奥さんの、お母さんにと、お菓子を買った。
カレン村に行く時の、お土産である。
生理用品を車に、積んで、施設に向かった。
町を、抜けて、自然溢れる場所にある。
とても、良い環境である。
昨年来た道を、思い出した。
林を抜けて、森の中に入るようである。