2010年09月30日

天皇陛下について56

ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意思に基づいて思考と行動が決定されている。そのような人間のことを私は本書ではこれ以降「辺境人」と呼ぼうと思います。
日本辺境論 内田 樹

そして、辺境人の、定義をする。
辺境とは、中華の対概念であると、言う。

世界の中心の「中華皇帝」が存在する。そこから「王化」の光があまねく四方に広がる。
内田

要するに、その概念は、歴史的に、
日本列島は少なくとも中華皇帝からは久しく朝貢国と見なされていました。朝貢国は皇帝に対して臣下の礼をとり、その代償に「国王」は冊封される。朝貢国は朝鮮、ベトナム、ルソン島、シャム、ビルマ、パレンパンまで広く東アジア、東南アジア全域に拡がってしました。
内田

日本列島の住民たちが彼らを「東夷」と格付けするこの宇宙観に同意署名したのは今から千八百年ほど前のことです、列島の一人の王が実効支配しているという事実について公的認知を中華皇帝に求めました。そして、皇帝から蕃地の自治領の支配者の封爵を授かりました。それが卑弥呼と呼ばれる女王です。
内田

ここで、日本列島における民族意識の発生について私たちがとりあえず言えることは、この地に最初の政治単位が出現したその起点において、その支配者はおのれを極東の蕃地を実効支配している諸侯の一人として認識していたということです。列島の政治意識は辺境人としての自意識から出発したということです。
内田。

これは、非常に説得力がありそうだが、内田氏の、一つの考え方である。

そして、聖徳太子の隋の煬帝に出した、親書について、それを象徴するという。

聖徳太子は、対等外交を目指した。
ところが、その親書を見た、隋の人たちは、激怒した。最も、激怒したのは、煬帝である。二度と、そんなものを、見せるなと、言った。

そこで、内田氏は、
私はいささか危険な思弁を弄したいと思うのですが、これは先方が採用している外交プロトコルを知らないふりをしたという、かなり高度な外交術ではないかと思うのです。というのも、先方が採用しているルールを知らないふりをして、「実だけは取る」というのは、日本人がその後も採用し続けてきた、今日に至る伝統的な外交戦略だったからです。
内田

と、一つの考え方である。

相手を激怒された親書を持参したのは、小野妹子である。
だが、小野妹子が、帰国する際に、あちらの、政治家が、同行してきたのである。
ハイセイセイ以下、数名の政治家たちである。つまり、煬帝の家臣たちである。

更に、その時に、彼らと、対面したのは、推古天皇ではなく、聖徳太子である。
日本の帝として、である。
更に、彼らは、一度目では、会えなかった。
二度目にして、聖徳太子と、対面する。
それを、指示したのは、小野妹子である。
あくまでも、対等外交を推し進めた。

そして、彼らが、帰国する際に、小野妹子は、再度、隋に同行している。

その、何故かは、私の解釈では、当時、煬帝が、高句麗攻めを行っていて、日本にも、援助をと、考えていたからと、私は、思う。

知らないふりをして、実だけを取る、というのは、今日に至る、伝統的な外交戦略と、内田氏は、言う。
それも、一理ある。

私が、興味を惹かれたのは、内田氏の、戦争の際の日本の対処の仕方を、論じているところである。

例えば、明治維新後、新政府は対馬藩主を介して、李氏朝鮮に政体の変換について告知の文章を送りましたが、これに朝鮮は返信しませんでした。文言が間違っているという理由で無視したのです。「本邦、頃、時勢一変、政権一ニ皇帝に帰ス」という文中の「皇帝」が非礼である、と。李氏朝鮮は太祖李成桂以来五世紀にわたって明、清の冊封を受け、みずからを「小中華」「東方礼儀ノ国」と自称するほどに華夷秩序を内面化していた国です。彼からすれば、「皇」は清国皇帝以外に存在しない。なぜ朝鮮半島よりさらに辺境の蕃地の支配者が「天皇」などという称号を名乗ることができるのか、彼らには信じられない非礼と映ったのでした。
内田

それは、内田氏も、同じである。

何故、日本という、中華と、外れた、東の島国の主を、天皇と、呼ぶのか・・・
これが、日本人の気概だとは、考えないのである。

何をやっても日本人がやることは無知ゆえに間違っている。これは華夷秩序イデオロギーが導く自明の結論です。そして、日本人の側もそういうふうに自分たちが見られているということを知っていた。
内田

「知らないふり」をすることで、こちらの都合に合わせて好きなことをすることができる。これを辺境ならではのメリットとみなすことが可能です。
内田

文明化の、進んだ、中華に対して、そこが、中心で、そこから、遠のくと、辺境なので、辺境人と、日本人を、定義して、内田氏は、書く。

否定は、しないが、別な見方もあるということを、言う。

とても、饒舌で、読んでいて、楽しいし、別の見方からの、日本人というものを、見せてくれるので、それも楽しい。
しかし、それ、一辺倒ではないのである。
日本が、中心であると、考えてもいいのである。

今の、韓国などは、世界の中心である、歴史も、韓国から、始まったと、叫んでいる。
過去、中国の朝貢国だとは、決して言わない。

更に、中国は、朝鮮半島も、わが国の領土であると、平然として、言う時期がくる。

更に、内田氏は、司馬遼太郎氏の、書いたものを掲げている。
李氏朝鮮は、平俗にいえば、中国に在す皇帝をもって本家とし、朝鮮王は分家であるという礼をとった。地理的には蕃であっても、思想的には儒教であるため、大いなる華の一部をなすという考え方だった。
それだけに朝鮮儒教では華夷の差を立てることは過敏だった。当然ながら、この「理」によって日本は蕃国であらねばならない。ただ朝鮮という華に朝貢しに来ないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になる。
と、書いている。

当時の、状況から、そのようであったという、判断である。

辺境人という、その価値判断は、あくまでも、中国を中心とした、歴史観が、主体であるというもの。

私は、素直に、それを、受け入れることは、できない。

だが、書いている、中身は、面白いので、続ける。



posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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