2010年09月29日

天皇陛下について55

1894年、日清戦争勃発。

アヘン戦争で、完璧なままで、敗北した、清は、軍事的に弱く、西欧列強に、めためたにされるのが、目に見えていた。

イギリスは、アヘンを清に、売りつけて、膨大な資金を得ていた。
そこで、起こった、イギリスへの、戦争である。

上海では、今でも、バンドと呼ばれる、地区があり、イギリス統治時代の、そのままである。
イギリスに徹底的に、負けたせいか、現在の中国も、イギリスには、頭が上がらないという、逆説である。

さて、清は、属領と見なしていた、朝鮮半島の、併合を企てる。
清の、朝鮮出兵は、朝鮮南部の農民暴動「東学党の乱」である。

東学党は、西洋のキリスト教に反対する、宗教、東学を信仰する集団で、外国人と、腐敗した、役人を追放するための、暴動である。

当時、日本と清の間には、朝鮮半島を巡り、微妙な関係が生じていた。

日本は、開国した朝鮮の近代化を、援助すべく、軍政改革を推進させた。
朝鮮が、西欧列強の支配に、屈しない自衛力のある、近代国家になるべく、日本は、援助したのである。それは、また、日本の、重要なテーマでもあった。

日本の、安全保障の上で、朝鮮半島は、重要課題であったのだ。

もし、朝鮮半島が、西欧列強の支配に入れば、日本攻撃の、基地となる。

しかし、朝鮮の、宗主国を自任する、清にとっては、日本の影響力が強まることを、恐れる。

1881年、軍政改革に取り残された、朝鮮の一部軍人の、暴動が発生する。
これに乗じた、清は、数千人の軍隊を派遣して、暴動を鎮圧する。

その二年後、明治維新にならって、近代化を計ろうとした、金玉均、キンオクキュン、らが、クーデターを起こそうとする。
この時も、清は、軍隊を派遣する。
そして、親日派を排除しようとした。

日清の確執は、いよいよと、深まる。
そして、1886年、親善を名目にした、清は、購入したばかりの、軍艦「定遠」からなる、北洋艦隊を、長崎に入港させ、日本を威嚇する。

そこで、清の出兵に危惧を抱いた日本は、半島に、軍隊を派遣し、ここにおいて、日清の激突が、起こるのである。
日清戦争の、始まりである。

当時の、国際社会は、日本は、太刀打ちできないと、考えていた。

しかし、予想に反して、日本は、連勝連戦である。
わずか、一年で、清を破り、下関条約が締結された。

明治は、欧米の侵略から、国を守るために、呻吟し、苦悶を重ねた時期である。
そして、懸命に、西洋から学び、防備を固めたのである。

国を守るという、気概のある時代である。

明治政府は、大国清が、何故、西欧に蹂躙されたかを、考え、それは、科挙により、極端な、文民統治を行っていたこと。
中国の古典に精通している、エリートが、君臨して、武力に、関心を払わなかったゆえであると、結論した。

更に、朝鮮半島も、その文明を長い間、無条件に取り入れて、小中華主義に、陥っていたのである。
日本は、武力なき、中国、朝鮮は、このままでは、あえなく、西欧にやられてしまうと、考えたのである。

そこで、明治政府は、富国強兵を持って、国家の目的とした。
軍事力を、蓄えて、西欧列強の侵略に備えたのである。

実に、正しい、先見の明である。

しかし、西欧は、日本開国に対して、日本に、侵略の手を伸ばしていた。
江戸幕府は、開国にあたり、欧米列強から、飲まされた、条項がある。

一つは、プロシア、ドイツが要求した、北海道七重村の租借、二つ目は、アメリカによる、東京と、横浜の鉄道敷設、三番目は、イギリスと、フランスの、横浜への、軍隊駐屯である。

アメリカの場合は、東京と横浜間の、鉄道敷設では、駅、路線の周辺は、治外法権にするとあり、明らかに、植民地化しようとする、意欲である。

ドイツの租借、更に、イギリス、フランスの、横浜の軍隊駐屯は、自国の軍隊を配備するのであるから、すなわち、植民地支配である。

もし、徳川時代が、続けば、確実に、日本は、植民地にされていたのである。

明治政府になり、それらを、白紙にしたのである。

江戸時代の、後半は、イギリスの植民地だったという人も、いる。

明治は、このような、西欧列強の、包囲網にあった、時代なのである。

日清戦争は、そういう意味でも、原因は、西欧のアジア侵略にあると、いえる。

この、わずかな、差を見逃してはならない。
あのまま、国内紛争が、続いていれば、日本は、西欧列強に、食い物にされていたのである。

大政奉還が、いかに、大切なことだったか。

更に、被害の拡大を抑止したのは、天皇、王氏に逆らうことは、子々孫々まで、末代の恥であるという、感性である。

錦の御旗の元では、剣を収める。
最後まで、戦った、会津藩も、その言葉で、降伏を申し出た。
会津藩士は、城を枕に、討ち死にと気勢を、上げたが、藩士以下、家族全員が、死んでは、日本にとって、大損害だった。

会津藩士から、多くの偉人が、出ている。

ここで、日本の伝統である、天皇の存在が、いかに、大きく、そして、国を救うことになったかということ。

全く対立する意見を、治める時の、方法を、日本人は、知恵として、天皇の存在の下では、陛下の、お言葉に従うという、伝統である。

勿論、明治維新には、様々な、思惑があった。
正邪共に、あった。
しかし、結局、王氏、天皇の、御名により、江戸幕府は、身を引き、新しい時代を、創設することが、出来たのである。

国が乱れた時こそ、天皇陛下の、お言葉が、必要になる。
そして、国難を乗り越えるのである。

日本の伝統は、知恵なのである。
国家という、幻想を、支えることの出来る、存在、そして、神話が必要なのである。

昔、父親が、家の柱であり、家族の意見が、乱れた時には、家長である、父親の言葉に、従う。
それが、伝統であり、知恵だった。

建前というものを、置かなければ、前に進まないのである。
平たく言えば、ルールである。

その、ルールを、日本は、2671年、有しているという、奇跡である。

それを、日本辺境論、として、著したのが、内田樹、である。
彼の、その論調を少し、紹介したい。

2010年の、新書大賞に、輝いたという。
あまりに、饒舌で、人を引き込むが、ある面から、見ると、よく、書けている評論である。
新しい、反日という人もいる。
日本では、日本人が、反日的言動をしても、許される。

それは、言論の自由を、認めるということ。
素晴らしい、国である。

私のような、チンケな者でさえ、天皇陛下を、論じられるのである。
この自由を、守りたい。
そして、守るべきである。

天皇陛下とは、国民の声に、耳を傾ける、国唯一の、公人なのである。
決して、それを、遠ざけることは、しない。

その存在も、また、素晴らしい。
日本民族の、知恵の、結集が、天皇陛下で、あらせられる。




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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