2010年09月19日

神仏は妄想である 神仏は妄想である 309

だからここで問題の中心となるのは、社会体制の秩序維持、ということである。従ってまた、「一切誓うな」という宣言は、誓いなどというのは空虚な形式なのだから、虚礼は廃止しましょう、などという程度の消極的な意味ではなく、むしろ、誓いの背後にかくれている社会体制の秩序維持に固執する頑強な力に対するはっきりした抵抗の宣言なのだ。またそうでないとすれば、「一切誓うな」というせりふ自体、空虚なおしゃべりとなる。このことは現代においてもなおあてはまる。まして古代においてそういうことを宣言するのは、ものすごいことなのだ。
田川建三

こうして見ると、イエスという、人間は、とても、反骨精神の強い人物である。
ユダヤ教支配の中にあって、明確に、ユダヤ教の、形式を批判している。

今、様々な、教会において、イエスのような、強烈な批判、反骨精神を持って、物を言う者がいるのか。

社会体制ではない。
教会体制に、物申す者である。

どこかで、教会が、方向転換を迫られる。
つまり、聖書の嘘が、ばれて、誰も信用しなくなる。

信仰深い人々は、騙され続けるが、時代は、どんどんと、事実を明確にしている。

兎に角、何でもいいから、信じたい・・・
人間には、何かを、拝むという、本能的なものがあるようである。

だから、宗教が廃れないのか・・・
とすると、結局、宗教という、蒙昧が、いつまでも、まかり通るのか。

安心立命。
人は、何かによって、それを、得たいと思う。

それで、知恵深いキリスト教会は、イエスのこの言葉を(ほかの言葉もそうだが)平気で無視し続けてきた。しかもその無視の仕方は巧みであって、イエスのこの言葉を、いやそれだけではなくイエスについての思い出を全体として、歴史の記録から抹殺してしまうというような露骨なまねはしない。それはそれで保存しておいて、自分たちはこういう「良心的」なせりふも知っているのだぞ、ということを示そうとする。
田川

マタイ福音書の、眼目は、ユダヤ教徒より、より良い、ユダヤ教の確立である。
それを、イエスの言葉を通して、行った。

田川氏の、批判的聖書研究を尊敬するが、マタイの意図を、読み取ることからすると、少々のズレが生ずる。

聖書の、ギリシャ語の解説は、必要であるが、その前に、マタイの意図したものは何か、である。

だが、語彙に関しての、分析は、十分に説得力がある。

ギリシャ語の、誓いという言葉、それを、翻訳した、言葉にも、誓いには、二つの概念があるという。

一つは、宣誓である。
法廷などで、宣誓する。宗教的な意味で、神に対する信仰の誓い。
そして、もう一つは、神かけて誓うという、約束するという意味での、誓いである。

日本語の場合の、誓いという意味も、曖昧である。

要するに、イエスは、いずれの意味でも、誓うな、というのである。

イエス以前のユダヤ教においても、安直に誓うということをいましめる言葉は多く見られる。神かけて誓う、といった類のせりふを濫発するのはいかにも安っぽくなるから、「教育的」な意識をもった教養人はそれをいましめようとするのである。
田川

そこで、
古代のマタイ学派はそのように単純に底が割れるような下手な細工はしない。福音記者マタイの背後に存在している、ないしマタイ自身もその一員であるマタイ学派は、この場合でもはっきりそうとわかるように、ユダヤ教律法学者的な意味でまことに優秀な知識人である。
田川

イエスの「一切誓うな」を何とかして彼らのユダヤ教的心性の中で理由づけようとして、次のような理屈を付け足したのである。
田川

天にかけて誓うな・・・神の玉座である・・・

また、それは、ユダヤ教にある、神の名を、みだりに口にするなという、教えからのものである。

そして、神の代わりに、天や、地という言葉も、駄目だというのである。
議論の根拠を、旧約聖書からの、引用によって、なすという、段取りは、マタイ学派が、いかに、ユダヤ教の知識人たちであったかということだ。

とすれば、イエスの、真意は、何だったのか。
とても、反骨精神の強い人物だと、私は、先に書いたが、イエスの言葉か、マタイ学派の言葉か、解らない。

イエスをダシにして、自分たちの言い分を主張したのか。

宗教の経典というものが、ある人や、ある人々によって、改竄されてゆく過程には、それを書くものたちの、思惑があるということが、明確に解る。

権威を、イエスや、仏陀に置いて、書き付けるものだから、後世の人たちは、迷う。

初期、仏典などより、後世に書かれた、大乗仏典を持って、仏教、仏法などという、輩がいるが、自分の思惑通りに、出来るものを、掲げるのみである。

そして、それが、正しいとなる。

嘘なのだが、それが、正しいと、言い張る。
その心には、何があるのか。

それは、支配欲である。
信じさせて、支配するという、人間の欲望の、高度なもの。

それと、為政者が結託すれば、上々である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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