2010年09月18日

神仏は妄想である 308

また、「偽りの誓いをしてはならない。誓ったことは主に対して果たさなければならない」と昔の人々に命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う、決して誓ってはならない。天にかけて誓ってもいけない。天は神の玉座だからである。地に誓ってもいけない。地は神の足台だからである。・・・
マタイ福音書

聖書研究では、
イエスは、誓いを一切、禁じたのではない。ただ、当時の人々が、やたらに、誓いを立てて、神を汚していたので、これを、厳しく禁じたのである。誓いは、すべて神の権威に関係がある。神の御前に、虚偽は、成り立たない。
と、ある。

何の説明にもなっていない。

これははっきりしていて、疑問をさしはさむ余地はない。一切誓うな、というのだから、一切誓うな、という意味であって、それ以上に説明する必要は全然ない。
田川建三

だが、田川氏は、続ける。
それにもかかわらず、キリスト教社会はいろいろな場面で「誓う」ことを強制してきた。どちらが正しいか、と問う前に、まず確かなこととして確認すべきは、この点でも、イエスとキリスト教は逆の方向を向いている、という事実である。

キリスト教社会、体制社会が、イエス・キリストの御名によって、誓い続けてきた。
矛盾。

その種の神学的な根拠づけは、誓うことを正しい行為としてまず前提し、その上でいろいろ詭弁を並べたてているにすぎないからである。我々が知るべきことは、何故彼らが、相変わらず「誓う」ことに固執してしまうのか、という根拠なのである。
田川

体制社会を、維持するために、その秩序を守ることを、被支配者に誓わせる必要がある。
誓いが、重要なのではない。
誓うことによって、人を秩序に縛り付けておくことが、必要なのである。

誓いという、形式が持つ、宗教的な権威だけで、人を縛り付けることに、十分だったからだ。

宗教的権威の影が薄れた現代社会においては、誓うことはまったく空虚な建前となっているのに、相変わらず人が誓いの形式を保存したがる理由はそこにある。
田川

アメリカ大統領は、聖書に手を置いて、誓う。
何をか。
神の意思を尊重し、国民のために、働く事を。

しかし、大統領が、神の意思で、国民のために、本当に働いたのか・・・
多くは、逆であろう。
実に、滑稽である。

キリスト教が洗礼式、結婚式などにおいて「誓い」をやらせるのは、今となっては、とりたててものを申し上げるほどの必要もない滑稽な矛盾、ということで話がすむかもしれない。それにしても、イエスの言葉にもかかわらず、二千年間こうした「誓い」の形式を護ってきた神経はたいしたものだ、と言わねばなるまい。キリスト教徒ならば誰でも、これはよく知っている矛盾なのである。それをこうして放置していられる、というのは、結局、イエスの「教え」などというものはキリスト教徒にとってそれほどむきになって取り組むつもりもないものであるからにすぎない。さびしい事実だが、事実にちがいない。
田川

イエスと、キリスト教は、別物である。
私も、そのように思う。
イエスの、教えなど、どうでもいいのである。
要するに、教会、あるいは、団体が、信者を騙して、いいように、支配するという目的のためである。

カトリック教会は、今でも、結婚の誓いをした者たちが、離婚した場合は、教会に入ることを、許さないが、そうすると、日本でも、アメリカでも、特に、キリスト教国では、カトリック教会の、信者は、大幅に減るだろう。

結婚も、七つの秘蹟と、呼ばれるうちの、大切な、儀式なのである。

誰の、策略か。
信者の寝室までに、入り込む、宗教家たちの、支配欲というしかない。

現在の、ローマ法王は、コンドームを否定して、フランスでは、大規模な、デモが起きた。

人間の欲望を支配するというのは、宗教の大罪であるが、それに気づかない、蒙昧な歴史を繰り返している。

その点では、イスラムは、男に対して、実に寛容さを示して、一夫多妻を、認めている。その代わり、女は、モノである。
男の所有物。
それは、旧約聖書からの、教えである。

女を、男の支配するモノとした、旧約聖書が、堂々と、この、平等社会を、目指す時代に、聖典とされていることに、疑問を差し挟まない、キリスト教徒である。

矛盾も、何もかも、信仰という、美名の元に、収めてしまう、宗教指導者たちである。
彼らは、確実に、地獄に落ちるだろう。本当に、地獄があれば・・・

それとも、化け物の、ヤハゥエの神の元に、集い、喜び合うのか。
いずれにせよ、真っ当な場所ではない。

イスラムは、ムハンマドが、多数の妻を得ていたから、それが、当たり前になったのか。
当時、人々は、ムハンマドを、女好きの、気の狂ったものとして、認識していた。
ところが、武力でムハンマドが勝つと、従わざるを得なかった。

今でも、イスラムは、基本的に、武力を好む。
教祖の、意識が、そのまま残る。

諸々の、キリスト教新興宗教は、どうか。
これらも、嘘八百の聖書解釈を、掲げて、信者を騙す。
それに加担するのが、頭脳明晰な人たちである。
勿論、大枚な金を得る。

とてもじゃないが、読むに耐えない、教義である。
信じなければ、成り立たないのである。
信じるから、成り立つという、愚昧。

メシア到来を、信じるユダヤ教から、イエスをメシアとする、キリスト教から、メシア、イエスの再臨を信じる教徒たち。
いずれも、救われない人々である。

どんなに、待てど暮らせど、イエスが、雲に乗って、やってくることは、無い。
まして、エホバの、千年王国などは、確実に無い。

あり得るのは、人間の進化による、神無き時代の、希望である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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