2010年09月17日

神仏は妄想である 307

ここで、マタイに戻り、マタイ福音書が、如何なるものであるかを、検証する。

なぜイエスは奇跡を行うのだろうか?ほとんどの人は、彼が人びとを憐れみ、人びとを苦痛から解放してあげたかったからだと答えるだろう。事実、この答えは、共観福音書には当てはまる。しかし、それだけではない。共観福音書に出てくる奇跡は、待望の王国が、イエスの内部にすでに到来しつつあることを示唆しているのだ。

主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕われている人に開放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ・・・
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは言った。
ルカ四章

別の箇所で、洗礼者ヨハネの弟子がイエスの下にやって来て、イエスが終末期に出現する人なのか、それとも誰か別の人間が現れるのか聞いている。それに対し、イエスは次のように答えている。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」マタイ十一章。共観福音書のイエスは、神の国へ人びとをいざなう、永く待たれた人物として描かれている。
以上、アーマン

だが、そうであるにも、関わらず、共観福音書では、彼を信じない人々に、自分が何者であるかを示す、奇跡を行うことを、拒絶するのである。

マタイでは、何人かの、ユダヤ人指導者が、イエスに、先生、奇跡を見せてくださいと、要求するが、イエスは、断固たる口調で、
よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない
と、言う。
そして、ヨナが、大魚の腹の中で、三日三晩死んでいたように、人の子も、大地の中に、三日三晩いるだろうと、述べる。

旧約聖書の、ヨナの書にある、話しである。
アッシリアの首都ニネベに、神は預言者ヨナを、遣わす。しかし、ヨナは、神の命令に背く。そこで、彼は、海に投げ込まれ、大魚に飲み込まれて、三日後に吐き出される。
それ以上、神の命に背かず、ニネベに行き、神の教えを説いて、町の人々を、改宗させる。

イエスは、それと同じ状況を比較したのである。

イエスは、神に楯突く人々に、教えを説くが、彼らは、悔い改めようとしない。
しかし、イエスは、自分が聖なる、存在であることを、証明するために、奇跡を起こすことを、拒む。

マタイは、イエスが、三日三晩、死の眠りついて、再び、その姿を、現すという、復活を最重要テーマとして、福音書を書いている。

アーマンは、マタイの、一貫したテーマが、ここにあると言う。

「マタイ」では、イエスは自分の正体を明かす手段としてしるしを行わない。「マタイ」の中で、奇跡が奇跡と呼ばれ、しるしと呼ばれないのは、そのためである。奇跡は、それを必要とする人びとを助けるための力の発現であり、神の国がまもなく訪れることを示すためのものなのだ。
アーマン

ここで、マタイは、まもなく、神の国が、訪れることを、示すという。
だが、あれから、二千年を経ても、神の国は、訪れない。
まもなくとは、一億年程度のことか・・・

さて、ヨハネでは、全く違う。

ヨハネでは、イエスの行いは、奇跡ではなく、しるしとして、呼ばれて、更に、イエスが何者かを、証明する。
人々に、彼を信じさせるために、しるしが、行われるのだ。

目を惹くのは、イエスが、ユダヤ人指導者たちに、ヨナのしるし以外のしるしを見せることを拒む「マタイ」の物語が「ヨハネ」には全く見当たらないことである。しかし、なぜだろうか?ヨハネは、イエスがしるしを通して宣教活動を行ったと考えているのだ。「ヨハネ」には、荒野での三つの誘惑についての記述もない。これはどうしてだろうか?ヨハネにとって、奇跡的なしるしによってイエスがそのアイデンティティーを示すことは、決して悪魔の誘惑によるものではないのだ。これこそ、彼の聖なる仕事なのである。
アーマン

これで、十分に、それぞれの、福音書の、記述が、それぞれの、価値観によっているということが、解る。

そして、それは、統一されたものではない、ということ。

つまり、イエスという、人物が、いかなる者であるのかということが、不明なのである。

造られた、イエスなのである。
本物の、イエスは、どこにあるのか・・・
誰も、知らない。

マタイの、物語を解く鍵になるのは、宣教を始める前の、荒野での、悪魔の試みであると、アーマンは、言う。

最初の誘惑
四十日、断食をしていたイエスに、石をパンに変えよと、悪魔が言う。
イエスは、人はパンのみで生きるのではない。神の言葉によると、言う。

二つ目の誘惑は、イエスをユダヤ教の神殿に、連れてゆき、飛び降りろという。すると、天使が助けるだろうと。
この意味は、群集の中で、奇跡を見せて、真に神の子であることを、証明せよと、誘惑されている。
イエスは、言う。
あなたの神である主を、試みてはならない。

三つ目の誘惑は、悪魔を崇めれば、地上の王国を与えるという。
この世の支配である。
しかし、マタイは、イエスが、最後に、この世の支配者になるめことを、知っている。
しかし、そのためには、十字架で、死ぬこと。
この誘惑の意味は、受難など、受けなくていいというもの。

「マタイ」では、超自然的な現象を通して、イエスが自分の正体を立証する場面が、極めて厳格に除外されている一方で、「ヨハネ」では、イエスのアイデンティティーを証明することこそが、奇跡の眼目なのである。
アーマン

少し話は、それるが、エホバの証人などの、新興宗教が、この世は、悪魔が支配するという、その考え方は、マタイ的である。
悪魔を崇拝すれば、地上の支配する権利を有するのである。

カトリックから、プロテスタント、そして、キリスト教新興宗教に至るまで、この、矛盾した、聖書、福音書を、テキストとして、採用している。
更に、聖書主義などは、本当は、迷いに迷うはずであるが、堂々と、妄想全開で、勝手な解釈を平然として、行う。

そして、主イエスは、主なる神、ヤハゥエという、魔神に至るという・・・

聖書作家に、振り回されて、信仰も何も、あったものではない。

すると、敬虔なキリスト教徒、牧師、司祭たちは、言う。
それぞれが、それぞれで、イエスを、書いている。
それを、総合して、イエスという、神の子の、全貌が分かるのである。
嘘である。

それぞれが、別の次元と、価値観で、書いているのであり、改竄、また、改竄しているのである。

自分たちに、都合よく、書き改めている。

イエスキリストは、造られた、創作された、存在なのである。
それは、皆、妄想の産物なのである。

キリスト教の、霊性・・・などいうものは、全く無いものである。
その根拠が、全く無い。

霊性とすれば、自己暗示である。
聖人の中には、脱魂、という、状態もあったというが、あれは、ヒステリーである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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