2010年09月17日

神仏は妄想である 306

宗教に、入信するといことは、如何なることか。
それは、宗教の与える、神や仏を、信じて、奉るということである。
そして、その教義を受け入れる。
更に、自分の頭で、考えないようにする。

もう一つ、宗教に入信せずとも、それと、同じようになる人もいる。
何々主義者である。
更に、個人崇拝も、そうである。

一旦、信じてしまうと、思考が停止する。
勿論、本人は、考えての末の結論であると、思い込む。
しかし、信じる。任せるということが、心地よくなる。更に、物事の判断を、すべて、その教えや、主義に、帰結させる。

完全に、そうなると、人間は、知性を捨て、理性を捨てる。
勿論、最初から、そんなものが無い人も、いる。

大半が、宗教が何であるのかを、知らずに、近づき、果ては、信じて取り込まれる。
信じる者は、確実に騙される。

大きな、宗教ではなくても、小さな団体でも、所属する人は、その団体の教えに、偏狭になってゆく。

最も、恐ろしいのは、それを、他の人に、説いて、自分と、同じく信じさせようとすることである。

つまり、更に、罪を作るのである。

ある、法華経の講義に出ていた者が、私に、仏教批判を書くなと、言う。
その方法は、すでに、終わった方法である、云々・・・

その頭の悪い者は、一向に、自分が、洗脳されているとは、思わない。
更に悪いことは、それを、受け入れないと、本当に理解していないからだと、言う。
理解していないのは、自分の方であることに、気づかない。
そして、延々と、それの繰り返しをする。

本当に、救われない者に、なってしまう。

救われない。つまり、信じてしまう。信じると、救いは、無い。
人間が、進化して、生成発展してきたのは、考えてきたからである。
信仰は、それを、放棄させる。

そして、私のような、批判をする者を、破綻した論理という。

自分自身が、破綻していることを、知らない。
自分が、信じているものは、良いものである。
だから、あなたも、信じるべきだ、とは、あまりにも、破綻している。

歴史的・批判的聖書研究を、見ている。

復讐に燃える神についての記述は、一部のキリスト教徒が主張するように、旧約聖書にのみ書かれているわけではない。新約聖書の神でさえ、審判と怒りの神であることは、「ヨハネの黙示録」に親しんでいる読者なら知っていよう。燃えたぎる火の池が、神に従わなかった人々を待ち受けている。これは永遠に焼かれることを意味する。例えば二十年間といった一時だけ、神に背いた人々でさえ、永劫にわたって罰せられるという。たった二十年間の間違った生き方と引き換えに、二十兆年もの間、もがき苦しむのだ。しかもこれはほんの序の口に過ぎない。これが本当に神にふさわしい行いだと言えるだろうか?
アーマン

勿論、それは、聖書に書かれていることで、書いた人が、そのように、脅していると、いえる。
果たして、神に、相応しい行い・・・?
全く、神に相応しくないのである。

だから、私は言うのである。

どのようにでも、解釈できるのが、宗教の聖典であると。

牧師、司祭は、信者に、ありがたい・・・教えを、語り、信者を、気持ちよくさせる。
そして、その後では、神の裁きを説いて、信仰を捨てると、このように、神の裁きが下ると、脅すのである。

聖書には、あらゆることが、書かれていて、後で、どうにでも、理屈を付けられるようになっている。

聖書の読み方 北森嘉蔵
旧約における新約
それは、旧い契約が破られて、新しい契約によって回復されるということである。この点をきわめて明確に語っているのは、旧約聖書のエレミヤ書である。(したがって、そのかぎりではエレミヤ書はいちおう旧約に属してはいるが、実は旧約・新約を総括するような立場に立っているといえる)そこには次のように書かれている。―――主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトから導き出した日に立てたようなものではない。私は彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われるーーー

ここに書かれている「エジプトから導き出した日に立てたようなもの」というのは、モーセがイスラエル人をエジプトから脱出させた後、シナイ山において神から与えられた十戒のことである。

第一戒
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない

すなわち、人間がただひとりのまことの神のみを愛して、貞潔を誓うことである。それは夫と妻の関係にもたとえられ。しかし、妻たるイスラエルは夫たる神を裏切って、他の神々を愛し求め、姦淫の罪を犯した。これによって、神は契約を破棄して、人間との関係を断とうとした。これが神の怒りである。

しかし今や、神は「新しい契約」を立てることによって、断絶した人間との関係を回復したのである。これが罪のゆるしである。

上記が、牧師や、司祭が、真顔で言う、嘘である。

イスラエル人と、人間全体を、勝手に結び付けている。
新約聖書と、旧約聖書の結びつきを語るが、少し、歴史的・批判的聖書研究をした者には、全く、説得力がない。

エジプトからの、脱出も、嘘だった。
十戒は、モーセが、イスラエル人と、神との契約であったもの。
全人類ではない。

面白いのは、他の神々を、愛し求めていると、他の神の存在を認めている。
つまり、神は、他にも、存在しているのである。

勿論、他の神というのは、偶像であると、断定する。

それを、神が、ヤハゥエが語るのではない。
書いているのは、人間である。

ルカ福音書の中で、イエスが、
モーセの律法と預言者と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する
と、言わせる。

ルカを名乗って、勝手に言うのである。

どこも、かしこも、嘘だらけである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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