2010年09月16日

神仏は妄想である 305

私のお気に入りの明らかな矛盾は・・・・
イエスの「告別の説教」の場面に出てくる。これは、イエスが最後の晩餐に弟子たちに話して聞かせる最後の講話で、「ヨハネ」の十三章から十七章まで長々と続く。十三章三十六節では、ペトロがイエスに、「主よ、どこへ行かれるのですか」と問う。数行後にトマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と再び問う。それから数分後に、同じ食事の席で、イエスは弟子を激しく非難して、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のものに行こうとしているが、あなたがたはだれも、「どこへ行くのか」と尋ねない」と言う。イエスの記憶能力に問題があるのか、これらの章の下敷きになった出典が訳ありで、文脈がおかしな具合に断絶してしまったかのどちらかであろう。
アーマン

ところが、聖書解釈に、言わせると、その、矛盾が矛盾ではなくなるという、不思議である。

改めて、イエスが、弟子たちに、問いかける理由があると言う。
それほど、この部分が、重要であるとのこと。
弟子たちと、イエスの、意識の差が、あり過ぎるために、そのように、書いたのだと。

弟子たちは、この世での、行き先を、イエスは、死を通り、別な次元への、行き先を。

何とでも、言える。

このような、初歩的な、間違い、勘違いが、聖典とされると、許されるし、また、それに、大袈裟な講釈が、施される。

ヨハネの福音書は、他の、三つの、共観福音書とでは、質が違う。
弟子のヨハネが、書いたことになっている。
そして、イエスに最も愛された、弟子と、名乗る。
最後の晩餐の時も、一人イエスの胸に寄りかかっている。実に、意味深な関係である。

聖典とされると、絶対的、権威があり、その中の矛盾など、吹き飛ぶような、扱いを受ける。

この種の問題は、旧約聖書ではさらに顕著であり、しょっぱなから齟齬をきたしている。・・・
「創世記」一章の天地創造の記述は、二章のそれとは全然違う。言葉遣いや文体が違うということは、テキストをヘブライ語で読めば一目瞭然であり、神を指す呼び名も異なっているが、それだけではない。内容そのものが多くの点で食い違っているのだ。
一章に書かれている全ての出来事を時系列順に書き出して、二章についても同様のリストを作り、二つを比べてみてほしい。一章で書かれているように、動物は人間の前に造られたのか?二章で書かれているように、人間の後に造られたのか?植物は人間の前に造られたのか、それとも後に造られたのか?男は最初に造られた生物なのか?それとも最後に造られた生物なのか?女は男と一緒に造られたのか、別々に造られたのか?さらに、それぞれの記述自体にも意味の通らない箇所がある。
「創世記」一章で「光」が造られたのは天地創造の一日目なのに、太陽や月や星が四日目まで造られなかったのはどういうわけか?太陽や月や星が存在しないなら、光はどこから発せられたのか?太陽がなかったら、一章と二章の最初の三日間に「夜と昼」がどうして存在しえようか?
アーマン
私が、改行している。

これが、ほんの、手始めに過ぎないと、言う。

いかに、旧約聖書、新約聖書に、矛盾と、齟齬が多いかということである。

しかし、聖典となると、必ず、小理屈がつく。
甚だしいのは、神による、啓示と、霊感によって、書かれたという、恐ろしく蒙昧な、屁理屈である。
だから、矛盾があっても、いいのである。

更に、その矛盾にも、意味づけがされるという、不思議である。

聖書を細かく見ていくと、あまたの食い違いや矛盾の他にも問題があることが分かる。神や選民に似つかわしくないと思わざるを得ない価値観に基づいて書かれた箇所が、見受けられるのだ。神が都市の住民を無差別に殺戮するように命じるような存在だと、はたして私たちは考えることができるだろうか?
「ヨシュア記」六章で、神はイスラエルの兵士に、エリコの町を襲い、子どもを含む住民を皆殺しにするよう命じている。神が、選ばれし民がよからぬ影響を受けることを懸念したことについては、一応納得がいく。しかし、神はその目的のために、幼児や乳飲み子まで虐殺するなどという必要性を、本当に感じたのだろうか?一体彼らが邪悪さとどんな関わりがあったというのか?
アーマン
私が改行している。

旧約の神は、嫉妬と、怒り、殺人の神であることは、よくよく、知っていた。
虐殺、殺戮などは、朝飯前である。

いよいよ、キリスト教徒の中にも、その神の、命ずることが、おかしいと、気づき始めたのである。

随分と、年月を経たものである。

皆殺しの好きな、神である。
その名は、ヤハゥエという。

これは、インドの神々と、比べても、魔神の仲間であり、日本で言うと、荒ぶる神になるが、荒ぶる神も、皆殺しなどは、しない。

とんでもない、霊というしかない。

旧約聖書を、精読してゆくと、明らかに、この神なるものは、狂っている。また、化け物である。
神として、崇拝できるような、モノではない。

ところが、聖典であるとする、キリスト教は、兎に角、手間勝手な、屁理屈を持って、その神の行状を、肯定しようと、躍起になる。

このような、神を崇めていれば、人間の精神も、狂う。
だから、私は言う。
キリスト教徒の言う、霊性なるものは、まさしく、魔の神の、霊性を受ける。

こんな、物騒な、神を、我らが主として、崇めているのだから、世界に争いが絶えない。
ユダヤ、キリスト、イスラム教の、神である。

同じ神を、奉ずるものたちが、世界を、争いの、混乱に巻き込むということも、頷ける。

さて、果たして、この聖書研究の行くへは、どうなるのか。
私は、アーマンの、著作から、マタイに絞って、再度、マタイの福音書を、検証する。
そして、再度、聖書全体の、検証をする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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