2010年09月15日

神仏は妄想である 304

例えば、「マルコ福音書」では、イエスが「神殿を清めた」、つまり両替商の台をひっくり返し、「私の家は・・・祈りの家とよばれるべきである。・・・ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言ったのは、死ぬ最後の週だったと書かれている。ところが「ヨハネによる福音書」によれば、この出来事はイエスの宣教活動の最初期に起こったことになっている。
イエスが宣教の初期と最後の週の二回、神殿を清めたのだと考える読者もいる。しかしそうなると、「マルコ」も「ヨハネ」も「真実」を語っていないことになる。さらに、歴史的に見て、この二つの記述をすりあわせることは可能だろうか?もしイエスが初期の宣教活動の最中に神殿で騒ぎを起こしたなら、なぜ彼は当局によって逮捕されなかったのだろうか?聖書が矛盾を抱えていることに気づけば、「マルコ」と「ヨハネ」が神殿を清めるというイエスの行為を通して、異なる教えを説いているがために、この出来事をそれぞれイエスの宣教活動の違う時期に設定したのだと考えることもできる。
しかし歴史的観点から見れば、この二つの記述に整合性を持たせることはできない。
アーマン
上記、読みやすく、改行した。

新約聖書には、こうした、多くの矛盾した、記述が、あるということ。

通常の、キリスト教徒や、読者は、それに気づかないのである。
言われて、はじめて、解る。
それほど、意識しないで、読むのである。

単なる、読書ならば、いいが、それを、信仰の根幹にするというならば、その矛盾を解かなければならないはず。

しかし、そんなことは、どうでもいいことだ、要するに、イエスの教えの、象徴なのであると、キリスト教の保守的な人は、言うであろう。
聖書作家の、意図するものを、無視して、どうして、聖書が理解できるのかとは、考えない。

それらは、信じれば、いいということになる。

日本の、キリスト教徒作家の、誰ひとりも、そのような、テーマを掲げなかった。
とても、残念である。
単なる、キリスト教の、片棒担ぎである。

しまいには、日本には、神不在の云々という、実に、蒙昧な、作家もいた。
神という、観念の違いさえも、知らずに、言うのである。
いずれ、名前を挙げて、批判することにする。

上記のような単純な事例よりも、つじつまを合わせることがずっと難しい(事実上不可能であるとあえて断言してしまってもいい)。聖書を構成する書の間に齟齬が見られるだけではなく、一つの書の記述自体が首尾一貫していないこともある。歴史的・批判的な学者は、福音書の記者が様々な出典を繋ぎ合わせたことによって、矛盾が生じたためだろうと長らく考えてきた。
アーマン

実は、私も、長い間、気づかずに、そうして、聖書を読んでいた。
まず、イエスキリストを、信じた。それから、カトリック教会の、教えを信じた。そして、聖書を読む。
聖書批判から、信者になったのではない。
最初に、信じたから、信者になったのである。

だが、私は、批判的に、聖書を読む前に、キリスト教というもの、その、教団の、教義に、疑問を持ち、さらに神学というものの、不明さにも、気づいた。
これは、神の学である。一体、人間が、神の学なるものを、論ずることが、出来るのかという、疑問だった。

そして、それらが、ギリシャ哲学の派生によって、なったものであるという。
更に、妄想逞しい、教父といわれる、人たちの、考えによって、何故、神学というものが、出来上がるのか、である。

仏教の、教義が、滅茶苦茶であるように、キリスト教の、教義も、滅茶苦茶であると、考えるようになった。

例えば、「ヨハネ」では、イエスは二章で初めて奇跡を行い、水をワインに変える。そして「イエスは、この最初のしるしを・・・」行ったと続く。この章の後半部分では、イエスがエルサレムで「沢山のしるし」を行ったと書かれている。さらに四章には、イエスが役人の息子の病を癒す場面があり、「イエスが・・・なされた、二回目のしるしである」となっている。あれ?最初のしるし、沢山のしるし、それから二回目のしるし?
アーマン

とても、単純な、誤りである。

だが、信じている人には、何も影響を与えない。
それは、信じているからである。
信じて、見えなくなっている。

信仰とは、目が開くことだったのではないか・・・
そして、信仰とは、心の自由を得ることだったのではないか・・・

ところが、逆である。
信仰とは、馬鹿になることである。
真っ当な、理性を、生かさないことである。
更には、知性さえも、投げ捨てることである。

そうして、立派な、キリスト教徒になってゆくのである。

まさに、自己洗脳である。

それに、牧師や、司祭が、拍車を掛ける。

そうした、妄想に浸りきった信者の中には、とても、正常だとは、思えない、霊感者が、現れたりする。
祈りのうちに、予知が出来るだの、予言が出来るだのと、妄想に、振り回されて、更には、人を巻き込み、混乱させる。

自己陶酔の、極みである。それも、嘘だらけの聖書を、見抜けずに、自己暗示のような、信仰を、純粋な信仰と、大きな勘違いをするという。

そして、悪いのは、更に、人をその世界に、引きずり込もうとする、熱心な信者である。

自分も、分からない、勿論、人も、解らないという、キリスト教、主イエスの元に、集うものたちを、集めるのである。

牧師、司祭に引き合わされて、感動の、信仰体験などという、妄想を、感じて、入信するという、段取りである。
何故、人は、拝むのか・・・
今の、私のテーマである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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