2010年09月14日

神仏は妄想である 303

旧約聖書の歴史的叙述には、伝説上の作り話がふんだんに盛り込まれており、新約聖書の「使徒言行録」に書かれているパウロの人生や教えについての記述には、歴史的に信用できない情報も混ざっている。新約聖書の中の多くの書は、ペンネームで書かれている。すなわち使徒によって書かれたのではなく、後世の記者が使徒の名を偽って書いたものである。以上列挙したような事例は、枚挙にいとまがない。
アーマン

であるとするなら、指導者をはじめ、信徒たちは、どう反応するのか。
それは、それ、これは、これ、といっていられない、話しなのである。
信仰の根幹に関わる。

嘘の話を、信じて、信仰など、出来ない。
それならば、自然を信仰の対象にした方が、身のためである。

次から次へと証拠を突きつけられた学生の多くは、早い段階で、聖書が無謬なる聖典であり、完全なる史実に基づいて書かれているというそれまでの確信を揺すぶられる経験をする。あまりに多くの証拠があり、聖書の何百という矛盾に整合性を持たせるためには、推論に推論を重ねたあげくに、強引な解釈を次々と編み出していかなければならないため、最終的に学生の手に負えなくなるのである。
アーマン

学生だけではない、すべての、信じる人たちにとっても、そうである。

強引な解釈は、最も、教会で、行われた。
更に、教会も、歴史的事実であると、信じ込んだ時期がある。

嘘を本当だと、信じ込んだ時に、人間は、どうなるのか。
一度信じたものを、変更するのは、至難の業である。
要するに、自己洗脳であるから、手に負えない。

日本の、鎌倉仏教時代も、仏典が、すべて真実だと、信じた。
情報が少なく、信じるしか、方法がなかった。
それで、あのような、事態が、起きた。

本当は、存在しない、阿弥陀如来がいると、信じて、念仏を唱えた。
釈迦ブッダの、直の教えだと、勘違いして、座禅を持って、悟りを、開くという、蒙昧。更には、法華経のお話が、本当だと、信じて、経典に帰依するという、題目・・・
それらは、すべて、作り物だった。

だが、今更、変更するわけにも、行かず。更に、それで、生活を立てているのだから、更には、教団になると、莫大な、布施が入るのであり、変更する何物もないと、なる。

成仏を説いたが、成仏していない、開祖たちを、信じるという、とんでもないことになっている。
ブッダより、開祖が正しい。
ブッダ以上である。

堂々と、開き直り、親鸞聖人を信じているのである、と、とても、真っ当な神経ではない。親鸞が信じたものが、架空のものだったのである。しかし、それは、見ないで、親鸞を信じるという。

さて、推論に推論を重ねるという。
これは、創作活動と、同じである。

そして、強引な解釈、つまり、今まで教会で、教えていた、教義に、強引に結び付けようとするということである。

それよりも、教会の虚偽が、誤りだったと、認めて、聖書を、読み直した方が、早い。

そして聖書が矛盾を抱えていることが明々白々であるにもかかわらず、頑なにその事実を否定するよりも、いっそのこと聖書にも矛盾があるのだと認めてしまったほうが、聖書がずっと理解しやすいことに気づき始めるのだ。
アーマン

ということになる。

ルターによって、開放された、聖書は、それ以前、一般信徒は、見ることも、出来なかった。聖書は、聖なる書物であるから、神と、同じように、扱われた。

だが、歴史は、それを、許さない。
必ず、公開され、知られるようになる。

マタイの福音書が、マタイと、名乗る人物、集団によって、作られた、書であると、明確になった。
そこでは、マタイの、考えるイエスキリストであるということに、なる。
それは、他の福音書も、同じである。

それぞれが、それぞれの、立場、考え方によって、違えば、その書き方も違う。当然、矛盾だらけになるのである。

人を信用させるのは、権威である。
イエスキリストの、権威を借りて、そうして、造り上げたものが、聖書であるということ。
更には、イエスキリストの、権威も、作られたものである。

イエスは、宗教を立ち上げたのではない。

宗教に、造り上げたのは、後世の人たちである。

更には、為政者と、組んで、その教えを、絶対化した。
ローマカトリックは、その際たるものである。
ローマ皇帝が、利用できるとして、国教としたのである。

イエスの、教えとは、全く違った、イエスの教えが、闊歩する。
イエス不在の、キリスト教の出来上がりである。

そこでは、旧約の神から、イエスまでを、結びつけて、主イエスとなる。
旧約の神とは、ユダヤ人の神であり、ユダヤ教の神である。
一、 民族神が、そこでは、テーマとなっている。
イエスは、その神の子として存在する。

だが、神の子は、ユダヤ人すべてが、神の子である。
イエスだけが、特別ではない。

イエスは、福音書の中で、人の子という。
それを、拡大解釈して、人間の子として、人間すべての、罪の、贖いとして、磔られて、人間の罪の、すべてを、それによって、解消するというのである。

そして、人類の救い主ということになる。
イエスは、その教えの大半を、ガリラヤで説いた。
その、実に、狭い範囲の中で、当時の、ユダヤ教の、偽善に、猛然と立ち向かった。
ユダヤ教の刷新を、試みたとも、いえる。

イエスの、当時の、世界とか、人類という、意識は、どんなものだったのか・・・
地の果てまで行き、教えを、述べ伝えよ、とは、イエスの言葉であろうか。

もし、そう言ったなら、イエスの地の果てとは、どの辺りまでのことか・・・




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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