キリスト教成立の謎を解く バート・D・アーマン
いかに、無知で、無心であるかということである。
とても、騙されやすいのである。
更には、騙されて、喜ぶのである。
説教の題材について教わる代わりに、何世紀にも及ぶ研究に基づいて、歴史的・批判的な学者が築き上げてきた研究成果について教わることに、神学生はびっくりする。聖書は矛盾に満ち満ちており、しかもその多くは、いかんともしがたい矛盾である。
アーマン
いかんともしがたい、矛盾である。
これを、神学者が、書くと、実に、説得力がある。
一市井の研究家や、ライターが、提案しても、教会は、もとより、その信者たちも、取り合わないだろう。
五書(旧約聖書の最初の五つの書)を書いたのはモーセではなく、福音書を書いたのはマタイでもマルコでもルカでもヨハネでもない。最終的には聖書には組み込まれなかったが、ある時期には正典と認められていた書もある。例えばイエスの弟子だったペトロ、トマスあるいはマグダラのマリアの手によるものと考えられている福音書がそれである。
アーマン
正典ではない、聖書を、外典と呼ぶ。
その中には、イエスを裏切った、ユダの福音書というものもある。
私は、それを、持っている。
そこに書かれていることは、正典とされている、内容とは、全く別のものである。
奇想天外な、福音書もある。
少年イエスの、奇跡物語などなど・・・
歴史は、いつか、必ず、事実を見せてくれる。
今までは、事実、真実だと、思っていたものが、嘘だと、解った時に、人間は、二通りの、反応しかない。
無視するか、それを、受け入れるかである。
キリスト教においては、その教会においては、それを、無視し続けた。
更に、疑いを持った聖職者たちも、騒動を嫌い、慣習に従った。
嘘のまま、信者に、伝え続けたのである。
旧約聖書に出てくるイスラエル人のエジプト脱出は、おそらく本当にあった話ではない。約束の地カナンの征服は、おそらく伝説であろう。福音書の内容は多くの点で互いに食い違っている上に、史実に基づかない記述も含まれている。モーセが実在の人物なのかどうか、あるいは歴史的人物としてのイエスの教えが、正確にどのようなものだったのか知るのは、至難の業だ。
アーマン
と、すれば、キリスト教全体、イエス・キリストを、掲げる、すべての、宗教が、怪しいということになる。
至難の業、だという。
それでは、今までの、教義や、教理というもの、一体、どうなるのか・・・
どうにもならない。
簡単なことである。
信じれば、済むのである。
嘘も、百回言えば、本当になるとは、中国人のことである。
だが、宗教の信徒たちも、そのようである。
いやいや、彼らを、指導し、導く、牧師や、司祭たちも、同じである。
どうして、そのようになるのか。
それは、奇跡を見たからである。
パウロは、キリスト教の迫害者だったが、イエスが、パウロに現れて、改宗したのである。
それが、イエスの霊なのか、どうかも、検証せずに、イエスだと、名乗った、霊を、信じたのである。
そんなことが、朝飯前の、霊というものが、多く存在する。
中でも、カトリックによって、聖人とされた、多くの人々は、そのようである。
要するに、幻覚、幻視、暗示によるもの、多々あり。
イエスの、磔の、そのままを、受けたという、聖なる痕跡、つまり、聖痕である。
手と足に、イエスと、同じように、傷を受けたと言う。
激しい、精神錯乱による、暗示効果である。
何故、人が、そのように、何かを信じるようになるのか、ということは、いずれ、書くことにするが、私が思うことは、生きるということが、退屈なことであり、暇なことなのであると、認識する。
それぞれの、時代に合わせて、それぞの、欲望を持つが、いつの時代も、欲望希薄な人々がいる。
更に、人のためにという、大きなお世話の人々がいる。
更に、妄想である。
まさに、神仏という、妄想なしに、生きられない人々が、生まれた。
生まれて、生きることに、意味を、見出さなければ、生きられないという、病を、得た。それは、人間の大脳化ゆえである。
生まれて、生きることには、意味はない。
全くの、無意味である。
それに耐えられないがために、妄想を抱く。
そして、かろうじて、生きられる人々がいる。
生きるために、何故、意味が必要なのか・・・
私は言う。
それこそ、奇跡ではないか、と。
存在することを、意識するという、僥倖に、恵まれたのである。
そこに、意味など、無い。
ある、訳が無い。