2010年09月08日

神仏は妄想である 297

あなたがたも聞いているとおり、昔の人には、「殺してはいけない。人を殺した者はさばきをうける」と命じられていた。しかし、わたしはあなたがたに言う、兄弟に対して怒る者はみなさばきを受ける。また兄弟に「愚か者」と言う者は、衆議所に引き渡され、「ばか者」と言う者は、火の地獄に落とされる。
マタイ 5章

兄弟に対して、怒る者は、みな、裁きを受けると、イエスが言う。
おかしい。
イエスは、いつも、怒っている。

殺人と、怒りが、同じものだと、言うのである。

怒りを殺人と同一視して、どちらも同じ罪に定められる、とする奇妙な論理はどこから来たのであろうか。こういう論理展開はグロテスクである、と言わねばならない。もっとも、キリスト教神学者の中には、どうにもならないほどに非論理的な者がいるので「グロテスクなものがまさにイエスの要求の絶対性を示している」なんぞと言いつのる者がいるのだから(G・シュテーリン)、いやになる。
田川建三

階級的な支配権力を持つ者が勝手に「怒って」その「怒り」を人殺しに結びつける時には、その「怒り」は断じて許せない。しかし、「社会の一員であることを認められず、許されない」人間が怒るのは当たり前なのだ。それとこれとを一緒にされてたまるか。狭山差別裁判の石川氏に、怒ってはいけません、なんぞと誰が説教できるのか。
田川

田川氏は、二つの問題があるという。

一つは、人間が怒ることは、それ自体として正しくない。
これは、旧約以来の伝統的、見方である。

もう一つは、怒りと、殺人を同じくするという、観念的拡大である。
それが、マタイ教団の、独自の発想だという。

だが、旧約聖書に出る、「怒り」の概念を調べると、そこには、人間の怒りが、語られることが、極端に少ない。
怒りは、大半が、神の怒り、なのである。

旧約聖書は、イスラエル民族主義の、塊であるから、神の怒りは、イスラエル民族以外に、向けられるものと、考えられるが、実は、イスラエル民族にも、向けられている。

エゼキエルが、エルサレム滅亡について、語る場合、「私は君たちを一緒にして、君たちに向かってわが怒りの火をあおり、火の中で君たちは、とかされる」と、歴史的過去、もしくは、未来の、戦禍や災害が、神の怒りの、表現とされると、田川氏は言う。

キリスト教の、馬鹿さ加減は、聖書を、歴史書としても、捉える点である。
聖書は、宗教の文書であり、作為ある、書き物、つまり、何とでも、解釈できるものなのである。

それを歴史の現実として明らさまにとらえることをせず、神によって不可抗力に定められたこととみなす。歴史の中のことを、超越的な観念「神」の世界へと追いやる。まさに典型的な宗教的疎外である。
田川

スマトラ島地震の際に、イスラム指導者、及び、キリスト教原理主義の指導者が、神の怒りに触れたのであると、語ったのを、聞いて、唖然とした。
いや、呆然とした。

一体、どこから、そんな、とんでもない、発想が、出で来るのか・・・
つまり、観念「神」の世界へと、追いやるのである。

更に、悪いのは、彼らには、許せない、者たちの、行状が、良くないからだと、決め付けるのである。

こういうのを、手に負えないという。

戦争の際の、それぞれの、祈りを、聞くと、また、愕然とする。

キリスト教徒は、神のための、戦争勝利を祈り、イスラムは、同じく、聖戦であると、祈る。

次に、田川氏は、ヨブ記の著者による、話題を書く。

当時の月並みだが、支配的な宗教世論であろうけれども、因果応報的な、発想で、「神の怒り」を、個人倫理の水準にも適用する、自然災害は、「神の怒り」と、みなされ、それは、「悪しき人」の家は「大水に押し流され」「激流がその怒りの日に押し流す」という。

この種の宗教論理がうさんくさいのは、うさんくさいどころかひどく実害があるのは、しばしばこれを論理的にひっくり返して、自然災害の犠牲者の悪口を言うことになるからである。あの人の家が押し流されたのは、あの人が何か悪いことをしたからにちがいない、と、こうして自然災害の犠牲者には更に人間社会の偏見という二重の災害が押し寄せる。
田川

実に、差別の、最たるものである。

だが、ヨブ記の、著者は、旧約には、稀な、考え方をした。

常識的な良心が、あれば、自然災害は、悪しき者にも、良き者にも、平等に襲いかかる。
だから、悪しき者、に対する、神の報いと言って、説明するなという。

そして、極めつけは、むしろ悪しき者の方が、災害から、免れると、言うのである。

話は、より、具体的になるが、要するに、宗教では、問題を、すべて、神に、帰結させるということである。

勿論、良いことも、である。

それを、田川氏は、宗教的疎外であるという。

「疎外」とは、自分の現実の中にあるものを屈折させてそとに放り出す、この場合なら宗教的観念世界へと放り出すことである。
田川

時代が、下り、個々人の、倫理が、民族共同体の問題とは、別に考えられるようになっても、怒るのは、神なのである。

この伝統の中では、人間の、怒りというものを、真剣に考えさせないのである。

これは、恐ろしいことである。
すべての、事象が、神に帰結するという、妄想である。

人間の、倫理的な、怒りを、真に考えない場合は、人間まで、疎外するのである。
つまり、人間の場所がないという、矛盾である。

宗教には、人間の場所が無い。
それらは、すべて、神や、仏の、場所なのである。

これほど、人間と、関わらない観念は、無い。

そこに、逃げ込んで、苦悩する様を、信仰の深さと、勘違いした、多くの人々。
日本では、鎌倉仏教に代表される。

更に、続けて、見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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