2010年09月04日

天皇陛下について 35

政財界
敗戦後、いち早く、建て直しを行ったのが、経済界である。
焦土となった、日本を復興させようとの、経済活動が、日本を、未曾有の経済成長へと、突き進んでゆく。

その、多くの経済人たちは、経済的建て直しを図り、その後で、日本人の精神を、取り戻そうと、考えた。

兎に角、貧しさから、脱すること。
国民が、食べるに、困らないようにする。

敗戦後の、功労者は、経済人たちである。

そして、天皇陛下の、全国行幸である。

敗戦の、道義的責任に、心を痛めた天皇が、罪滅ぼしにと、思い立ったのが、全国行脚の旅であった。
天皇裕仁の昭和史 河原敏明

だが、実際は、そんなものではない。
道義的責任・・・

天皇陛下の、痛みは、そんなものではない。
あえて言えば、宗教的痛み・・・
皇祖皇宗に対し奉る御心、そして、それに連なる祖先たちへの、痛みである。
彼らが、築き上げた、この美しい日本という、国を、戦争によって、焦土にしたという、痛みである。

更に、物資の不足により、国民が、しのんだであろう、苦労を思えば、この身を、引き裂いても、解決しないという、痛みである。

陛下の御心を、考える時、下、しもの目線では、理解できない。
陛下は、上の人であらせられるから、上の目線で、理解しようとしなければ、理解できない。
それは、多分に、想像になる。

私は、陛下ではない。

同じ、下々の人を、理解するのさえ、ままならないのである。
どうして、上の人の御心を、理解できようか。

出来るというのは、傲慢である。

元来、内向的な天皇が、まして雲の上に隔絶されてきた身で、俄かに国民大衆の中に分け入るのは、大変な勇気と決心が必要だった。さらに、天皇に恨みをもつであろう数多くの人々、あるいは左翼テロリストの兇刀や暴行も予想せねばならなかった。
河原敏明

だが、天皇は、出掛けた。
そして、ありのままの、国民の生活を目にする。
更に、戦争犠牲者の、遺族たち、孤児たち・・・

それは、天皇にとって、針の筵に座すものであった。

一、 下々の私は、それを、思うと、狂うと、考える。
狂い死ぬ。

天皇陛下は、国体であらせられる。
そして、それを、教えられた。
我が身の、痛みが、至る所に、見えるのである。

昭和21年2月、神奈川県川崎市から、スタートした。
猛攻撃と、焼夷弾を受けて、破壊された跡の、昭和電工工場で、陛下は、対話に慣れずに、
あつ、そう
を、連発する。

雲の上の人、天皇陛下が、来られる。
人々は、好奇心もあり、至る所で、大変な人だかりであった。

巡行は、地方ブロックごとに行われた。

天皇の、温和な容姿と、飾らない人柄は、かつての軍服姿とは、結びつかないのである。
人々は、信じられなかったという。

大阪、名古屋では、何千人という、大群衆がなだれ、天皇めがけて殺到した。
立ち往生の天皇は、靴を踏まれ、ボタンを剥ぎ取られ、警備当局が、その有様に、懸念したほどである。

そんな日は、宿舎に着くと、侍従たちに、
今日も、人が、なだれたね
と、嬉しそうに語ったという。

どこも、戦災で、やられていたため、宿舎も、県庁の貴賓室、公会堂、時には、小学校の教室、駅の、引き込み線で、車中泊であった。

侍従が、風呂を心配するが、
十日間ぐらいは、入らなくていい
と、意に介さない。

四国、宇和島で、天皇のご宿泊の光栄に浴した、「つたや」の主人は、大金を投じて、浴室を改めて、到着を、心待ちした。
当日、主人の期待も空しく、陛下は、風呂に入らなかった。

折角なのに、勿体無いと、二人の侍医が、拝借していたところ、湯が、どんどんと、抜けてしまう。
風呂番が、失望のあまり、呆然としているところ、侍医が、入ってきたので、頭にきて、栓を抜いたのである。

風呂番の怒りは、もう一つ。
陛下に入浴の後に、市長、議長、議員らが、ご相伴に与ることになっていた。
彼らは、モーニングに威儀を正して、順番を待っていたのである。
それが、潰れて、面目を失った、悔しさである。

天皇は、
宿屋というものは、人を泊めるのに、なんと具合がよくできているのか
と、機能的な作りに、感心していた。

この、天皇行幸が、マッカーサーを、落胆させるとは、誰も、思わない。
天皇は、国民から、非難の的にされるはずだと、信じていたのである。
そして、人心は、天皇から、離れると。




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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