2010年09月02日

神仏は妄想である 291

マタイ福音書の、冒頭では、イエス・キリストの系図というものが、書かれる。

アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちとを、
ユダはタマルによってペレズとゼラとを・・・・

エッサイはダビデ王を生んだ。

イエスが、ダビデの、子孫であり、約束された、キリスト、メシアであることを、説得するのである。

聖書研究では、アブラハムの名を記したのは、神がアブラハムに約束された、全人類への祝福が、キリストによって、与えられたことを、示すと、いう。

ヤコブはマリアの夫ヨゼフを生んだ。
キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

だから、イエスは、ユダヤ教の、完成者なのであると、言いたいのである。

しかし、イエスは、聖霊によって、身ごもったのであり、血統ではない、はず。
マリアの子であり、ヨゼフの子ではない。

マタイは、ダビデのすえである、ヨゼフが、妻マリアから生まれる子の、父としての資格を持つことによって、この子こそ約束された、メシアはダビデのすえから出るという、預言を成就するものでると、教える。
とは、聖書研究である。

血の関わりより、聖霊、つまり、神の意思の方が、強いのである。

あまりの、こじ付けに、唖然とする。

処女降誕は長々と書きつられた系図を無効にしてしまう。その意味においても、処女降誕の記事は不可解である。
聖書の読み方 北森嘉蔵

ところが、北森氏は、とんでもないことを、書く。
それこそ「連帯化」の真理にほかならない。連帯化は、一方ではAがBと一体化し内在化することであるが、しかし他方ではAはBから超越して他者性をもっていることを必要とする。処女降誕はその超越的他者性を示すのである。

系図によって人間と一体化した救い主イエス・キリストは、その系図とは無関係な処女降誕によって、人間から超越した他者であることを示すのである。

救いとは、罪びとから超越している聖なる神が、罪びとの世界に内在して罪びとと一体化することによって成り立つのである。

上記、勝手な言い分、勝手な解釈である。
全く、説得力がない。
超越的他者性・・・
詭弁である。

更に、その蒙昧は、続く。

もし罪びとと一体化するだけであるなら、それは罪びとを現状肯定することになってしまうであろう。救い主が罪びとから超越した聖なる存在であることによって、救いが罪びとの現状肯定に終わらず、その現状批判と現状変革とを伴うことになるのである。

これが、神学者である。
系図を取り上げた、マタイの解釈ではなく、希望的願望を、書き上げるという、愚である。

更に
はじめから罪びとと一体化しているだけの存在なら、救いと称しても、結局は「すねに傷持つ身同士」」で傷をなめ合っているようなことになるにすぎない。
と、なる。

この人は、自分が、矛盾しているとは、全く考えていない。
イエス・キリストが、メシアであるという、前提に立ち、解釈するからである。
つまり、信じている。
信じているから、とんでもない、飛躍したことも、平然として、書く。

イエスの、系図の解説を、淡々とするというならば、解る。しかし、そこに、すでに、イエスを、メシアであると、信じることが、前提にあるから、全く、説得力がない。

イエス在世当時の、律法学者と、変わらない。
今、イエスが、目の前に現れると、偽者だと、弾圧するであろうことは、難くない。

責任を負うのは、相手の現状に対する批判と変革とを伴う。この批判と変革は、相手からの超越性によってのみ成り立つ。完全に内在化してしまえば、相手を批判することも変革することもなくなる。
北森

通常の、問題を解決する、手立てとしてならば、それを受け入れられるが、イエスが、メシアだということの、解釈とすれば、受け入れることは、出来ない。

キリストは罪びとの責任を負って十字架の刑罰をうけ、罪びとをその刑罰から救い出す。それは完全な救いであって、人間のがわでのいかなる条件をも要求しない。無条件の救いである。それが系図の中にふくまれるメッセージである。
北森

ここでは、人間を、罪びとであるとする、前提がある。
人間は、罪びとなのである。

しかし、そのキリストは本来的に罪びとであるのではなく、罪から超越した聖なる存在であるままで、罪びとと連帯化するのである。この超越性が処女降誕の中にふくまれるメッセージである。
北森

メシアとして、作られてゆく、イエスであるということだ。

処女降誕を信じることが、クリスチャンの、まず最初の試み。

ユダヤ教の、背景を、見回して、イエスの存在が、アブラハムから、ダビデにつながる、系図の上にある存在を言い、それが、旧約に約束された、メシアであるという、段取りを、マタイ教団は、その、権威と共に、書き上げなければならなかった。

イエスを、メシアとして、作らなければならない、使命があった。

処女降誕だけでも、十分に、説得力があるものだが、ユダヤ教、ユダユ人を、意識しての、記述である。

信仰宣言は、我は全能の神を信じ、乙女マリアから生まれ、死から甦る、主イエスを、信じます、である。

最低限の、それは、信仰宣言である。
が、二千年前の人には、通ずるが、今は、無理である。

神話として、生きているというならば、それもまた、善しであるが、それが、事実であるというのは、あまりにも、無理がある。

それは、完全な救いであって・・・
何を根拠に、完全な、救いというのか。

まさに、妄想というしかない。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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