2010年09月01日

神仏は妄想である 290

ここで、少し、当時の時代背景を、描くことにする。
更に、話が、横道にそれても、それは、必要なことである。

当時の、ユダヤ教の姿は、想像以上の、ものだった。
それは、支配者階級である。

戒律主義、差別的偏見、物欲のとりこ、傲慢の極み、傲慢の塊である。
イエスは、彼らに対して、徹底的に、攻撃し、鋭い批判を展開した。

勿論、だからこそ、最高刑の、磔刑を受けたのである。

イエスは、民衆の人気者、大変な支持を受けた。
何故か。
それは、虐げられた人々の中に入って、行ったからである。

ユダヤ教の、支配者層は、政治的支配者でもあった。
その、支配者層によって、搾取され、差別された、人々の、この世での、救いは無い。

当時は、更に、ローマの支配の中に、組み込まれて、民衆は、二重支配に、苦しめられていた。

救いようの無い、民衆に、イエスは、心から、同情した。
と、共に、本来は、民衆のために、現世の救いも、与えなければならない、役割をするべき、ユダヤ教の支配者層は、皆無だった。

現在の、キリスト教の、支配者層に、実によく似ている。

現世の生活にも、救いが無い、状態を生きる人々の、救いは、矢張り、神だった。
だが、その神の側につくのが、律法学者であり、パイサイ人である。

イエスは、色々な、差別から、人々を、解放した。
当時のユダヤ人ほど、差別感情の激しいものはない。

隣国サマリア人、異邦人、婦人、子供、貧しい人々、心身障害者、らい病、取税人とは、ローマの委託を受けて、税金を取り立てる者である、更に、遊女たちである。

選民意識から、出た、これらの差別は、まことに、根の深いものである。

マルコ福音には、
私が来たのは、健康な人たちのためではなく、病気の人たちのためである。義人を招くためではなく、罪人を招くために来た。

差別されていた人々は、罪人として、扱われていたのである。

恐ろしい、排他的主義である。

歴史は、それが、逆転して、ユダヤ人迫害に至ることを、教える。

自分たちは、神に選ばれた者である、という、意識過剰は、甚だしく、イエスの、怒りは、それに向けられた。

実際、イエスは、宗教教団を作る意思は無い。
ユダヤ人の、意識改革であった。

当時の、イエスの世界というものは、実に、狭いのである。
地の果てとは、どこまでのことを、言ったのかは、誰にも、解らない。
しかし、イエスは、ユダヤ教の地域の、地の果てを、指していたのである。

現在の、全世界のことではない。

傲慢とは「自分を義人だと自任して他人を見下げる」ことであるが、それは神との垂直な交わりを阻害するだけではなく、他人との平等な交わりをも破壊する。ゆえにイエスは傲慢という非人間化からの開放を行ったのである。
キリスト教新講 由木 康

そして、偽善からの、開放である。

イエスは、罪人と、言われた人々、貧しい人々、病人に対しては、実に、哀れみ深く、対応したが、律法学者、パリサイ人には、容赦なく、大変厳しい態度で、臨んだ。

その、彼らに対して、
外側は美しいが、内側は、死人や骨、あらゆる不潔なもので一杯である。
外側は、人に正しく見えるが、内側は、偽善と不正とで、一杯である。
と、攻撃した。

その激しさは、生半可なものではなかった。
イエスを、亡き者にしようと、彼らが、策を練るほどであった。

一体、このような、人間が現れた時に、既成の権力を持つ人たちは、どのように、対処するだろうか。
暗殺を考える。

更に、イエスは、ユダヤ教の、神にも、その、攻撃を向けるのである。
というと、おかしい、イエスは、神の子であろう・・・
いや、神の子は、ユダヤ人、すべての人のことである。

私の父と、イエスがいうところの、父が、ユダヤ教の神のことだろうか。

ユダヤ教の、神とは、アブラハム、イザク、ヤコブ、ヨハネの、神である。
更に、モーゼの神である。

磔刑の、イエスは、最後に、神よ、神よ、私の神よ、何故、お見捨てになるのですか、と、旧約にある、言葉を、投げ掛ける。

実際、イエスの神と、旧約の神、ヤハゥエ、エホバは、違う。

イエスの、時代になると、神は、沈黙したままである。
あの、嫉妬と、怒りの神が沈黙したのである。

イエスは、多く神という、言葉を、用いない。
天の父、私の父、である。

当時は、神の名を呼ぶことも、注意に、注意した。
それなのに、私の父と、言って、憚らないのである。

聖書研究の、限界が、見える。
旧約の神と、イエスの神は、別物である。
そして、もし、同じならば、イエスも、魔神の仲間であるということだ。
ヤハゥエとは、霊である。
ユダヤ民族の、神と、名乗る霊なのである。

私以外を、拝んではならない、という、魔神であり、化け物の霊である。

イエス以後、その神が、ユダヤ民族に、対して、何事か、指し示したか。
否である。

ユダヤ教は、旧約の、契約から、未だに、一歩も、出ていない。
だから、今でも、メシアの、出現を待つ。
そして、それは、永遠に訪れないのである。
それは、すべてが、終わったからである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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