2010年08月05日

天皇陛下について 5

権力闘争によって王位を得たヨーロッパの王朝は、かつてどの王朝でも栄耀栄華を極めている。日本の皇室にはその経験がない。明治維新までも、富と権力は将軍家にあって天皇家にはなかった。日光東照宮の絢爛と、伊勢神宮の素朴さを比較するだけでも明らかである。
藤島泰輔

豊臣秀吉は、天皇家の、垣根が荒れ果てているのを、見て、即座に、手直しを命じたという。

天皇家は、少しばかり、庶民の上の暮らし振りだった、時期もある。
ただし、その権威だけは、失わない。

天皇が、病にある時は、京の花僧が、快癒の祈りで、天皇家の前に、花を立てた。
更に、庶民も、手を合わせて、快癒を祈る。
そのような、存在だった。

決して、栄耀栄華を、謳歌したという、事実はない。
ただ、国と、国民のために、祈る存在だった。

天草島原の乱の際に、幕府は、不気味な自然状況から、朝廷に、特別祈願を願い出ている。

そのような、存在が、朝廷だった。
そして、天皇の祈りも、である。

さて、日本の皇室は、一度たりとも、閉ざされた皇室を、目指したことはない。
ただし、皇室の周辺に、皇室への道を閉ざして、自らの権力の道具に利用した、勢力が存在したのは、事実である。

開かれた皇室を、唱える人々に言う。
皇室は、一度たりとも、閉ざした事実は無い。
今更、何をいうのか。

ただ、その無形の権威に、国民は、畏敬の念を抱き、恐れ多いと、畏まっていただけである。
開かれた皇室を、目指せとは、お勉強をしていない、証拠である。

更に、王は、作ることが、出来るが、天皇は、作ることが、出来ないものであることを、肝に銘じるべき。

西欧の、王室と、皇室の違いは、天地の差ほどある。

比べる対象ではない。

日本人は、天皇の存在を、忘れて、生活していて、いいのである。
天皇は、君臨も、統治もしない存在である。

だが、国難、政治が不安定など、大きな出来事の際に、天皇の存在に、安堵するのである。

再度言う。
皇室は、一度たりとも、閉ざされたことはない。

開かれた皇室などを、掲げる、連中は、何かの魂胆があってのこと。

陛下は、日本国中の、出来事に、心を砕く。
毎日。
朝から、晩まで、いや、24時間、心を砕く。

そのような、無私の存在は、世界に二人と、いない。

更に、勉強不足なのは、現人神という言葉である。

これは、国民のことを、言う。
皆が、現人神なのである。

古来の、伝統である。
それを、天皇のみに、当てたというのは、間違いである。

正式に、天皇を、いう場合は、現人御神、あらひとみかみ、と、お呼びする。

大和朝廷以前の、富士王朝では、国民を、皆、神として、呼んだ。
その、伝統を忘れたのである。

更に、加えて言う。
君とは、あなたと、私との、関係で、使われる。

君が代という、国歌は、あたなの、幸福と長寿を願う、歌である。

天皇は、大君と、呼ばれる。
おほきみ、である。

それも、お勉強不足である。

どこの国に、私の大切な人が、幸福で、長寿でありまように、という、歌詞の国歌があるか。
日本の国歌こそ、世界国歌に、相応しい。

これほど、平和な内容の、歌詞の国歌を、私は知らない。

それで、天皇は、国歌を変更せよと、仰せられたか。
そのままである。
それは、国民、皆が幸福で、長生きして欲しいと、思うからである。

無形の権威は、そのように、ある。
我が身は、無私なのであるから、平然として、君が代を、受け入れている。

これが、王室になると、とんでもないことになる。
王の権威と、権力を、謳いこまなければ、納得しない。
それほど、王位というものは、不安定なのである。
つまり、作られるからである。

天皇は、作ることが出来ない。

今年、建国から、2670年を、迎える。
その長きに渡る伝統があるから、首相が、コロコロと、変わっても、国民は、平然としていられる。
天皇陛下の存在があるからである。

海外の要人は、陛下に逢えば、それで、納得する人たちが、多い。
今や、天皇は、キングでも、エンペラーでもない。
世界の、天皇なのである。



posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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