2010年07月19日

メーソートへ 5

まず、向かったのは、難民の無料診療、及び、入院看護をする、メータオ・クリニックである。

丁度、日曜日であり、医師、看護士は、お休みである。
それは、残念だった。

しかし、入院病棟に私たちは、向かった。
といっても、ただの、小さめの、体育館のような建物。

そこに、入院患者と、それを、世話する人たちがいる。

準備していた、大人、子供用、更に、タオルを入れた、バッグを開ける。

入り口に、陣取ったが、そこに、人が集まる。
手に取ったものから、手渡す。

手渡す、これが、私の方法。
手渡して、差し上げる。

皆さん、神妙に、笑顔もない。
その、苦境の生活が、身に沁みて感じられる。

無料だから、来ることが出来る。
そこには、希望が無い。

笑う力も無いのである。

私は、中腰で、物を取り出して、渡していたので、ついに、腰が、怪しくなってきた。
あーーーいたっっっっっ
と、腰に手を当てた。その時、人々が、少し声を出して、笑った。

もう一度、私は、同じ仕草をした。
すると、また、笑い声である。

ああーーーー
私は、最後に、タオルを取り出した。
それが、とても、喜ばれた。
皆が、手を出す。
決して、奪い合わない。

その手に、私は、タオルを、渡す、渡す、渡す・・・

すべて、差し上げた。
バッグを、片付ける際に、一人の男性が、手伝った。
無言である。

だが、心の思いは、十分に伝わった。
彼らを、憐れむ気持ちなど、微塵も無い。
ただ、有るところから、無いところへ、運んだだけである。

タイ語も、分からない私は、ビルマ語も、当然分からない。

そして、私が、それを行うのを、広倉さんと、中野さんが、じっと、見詰めていた。
決して、手出しは、しなかった。

コータ、写真、写真
大丈夫、どんどん、渡して

それでも、私は、バカチョンカメラで、撮った。
皆さん、仲良く写ってくれる。

コープクンカップ ありがとう
私の知る、タイ語の一つである。
何とも、情け無いが、それしか、言えない。

平倉さんが、今日は、日曜で、職員が、居ませんと、言うが、私は、大丈夫です、次に、来た時、お会いしますと、言った。

最後は、日本語で、さようなら、である。

また、来ますね

次は、クリニックから近い、中野さん宅に向かう。

中野弥一郎さんの、遺骨に、慰霊するためである。

最後の日本兵と、言われた中野さんは、マスコミを嫌ったという。
平倉さんが、教えてくれた。

私は、普通の人間で、特別なことはしていないと、いつも、言っていたという。

私は、居間に通されて、即座に、神呼びを、行った。
御幣は、中野さんの庭先の、枝を貰って、作った。

その間に、家族が、集まっているのを、私は、知らない。
私は、兎に角、数霊を、唱えて、中野さんの、霊位に対座した。

うーーーーとか、おーーーーとか、皆さん、驚いたと、思う。
音霊による、慰霊の所作である。

最後に、清め祓いをした。

沢山の写真が、掲げられてあった。
中野さんの、お母さん、お兄さん、そして、タイの高僧たち、更に、昭和天皇のお写真である。

気づいた時、おじさんという人や、中野さんの息子さんの、奥様まで、揃っていた。

彼らは、日本語が、分からない。
平倉さんは、来年、遺骨を、中野さんの、古里、新潟の、小地谷にもって行くと言う。

日本に、帰りたいと、言っていたという。
当然である。
古里は、古里で、ある。

それを、運ぶという、平倉さんも、あまりに、善良な人柄である。
これについては、後で少し、説明することにする。

私たちは、即座に、立ち上がり、失礼しますと、家族の皆さんに、告げた。

そして、また、車に乗り込む。
すると、平倉さんと、中野さんの、奥さんが、車の、荷台に乗るではないか。

それは・・・
いいえ、いいんですよ
奥様が、真っ当な英語で、答えた。
実に、素晴らしい発音である。

コータは、英語で、奥さんと話し、中野さんとは、タイ語で、話した。

私は、平倉さんと、日本語である。




posted by 天山 at 00:00| メーソートへ 平成22年7月 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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