2010年07月10日

神仏は妄想である 299

「かんつうしてはならない」と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う、だれでも情欲をいだいて女を見る者は、その女に対して心の中ですでにかんつうの罪をおかしたことになる。それで、もしあなたの右の目があなたを罪にさそうならば、それをえぐり出して捨てなさい。全身が地獄に投げ入れられるよりは、からだの一部を失うほうが、あなたにとってはましである。もしあなたの右の手があなたを罪にさそうならば、それを切って取って投げ捨てなさい。全身が地獄に落ちるよりは、からだの一部を失うほうが、あなたにとってましである。
マタイ福音

聖書研究では、罪は、外的な行為だけではなく、内的な行為、すなわち、思い、望みによっても、生ずる、とある。

このイエスの言葉を、真っ当に、解釈することが、出来ずにいるのが、神学者や、司祭、牧師たちである。

一体、イエスは、何を言うのか。
そして、マタイは、何を考えて、このように、仕立てたのか、である。

姦通してはならない
とは、モーゼの十戒にある、言葉である。

端的に言う。
モーゼの姦通は、人妻のことである。
当時、女は、男の所有物の一つであった。
他の男の、牛でも、羊でも、女でも、それを、奪ってはならないということである。

この言葉を、額面通りに、実行しようとするのは、また、現代の言葉通りに、読んで、実行するのは、極めて、グロテスクな、新興宗教であろう。
ものみの塔という、エホバの証人ならば、そのままに、解釈するだろうし、原理主義者も、そのようだろう。

聖書主義というものも、そうだろうと、思われる。

これを、検証してゆくと、とんでもないことになるのである。

「姦淫するなかれ」についても、反対命題が伝えられている。そしてこれは人間の心の動きの機微をついている。旧約律法には「姦淫するなかれ」とあるけれども、私ならば敢えて申し上げよう、情欲をいだいて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのである・・・
田川建三

女が好きな男にとって、女を見る時、少なからず、そのような、目つきになるだろう。
そのような、心の機微に、何ゆえ、その目をえぐり、投げ捨てよ、などという、言葉が出て、更には、全身が、地獄に投げ入れられるよりもましだ、などと言うのか。

全身が、地獄に投げ入れられるよりまし、だという、その地獄という、言葉も、尋常ではない。

天国が、妄想であり、更に、地獄というのも、妄想である。

更に、人間の欲望を手玉に取り、人間を支配しようとする、根性が、気に入らない。

さて、神学者、田川氏の、解説である。
つまりマタイはここで、今までに実に長い間ユダヤ人社会に支配してきたモーセ十戒の法律的規則の一つを「観念領域に対して無制限に拡張している」姦淫の禁止が法律の規定の一つである限りは、極めて限定された具体的な一つの実行行為だけがそこで扱われるので、それはユダヤ教社会の社会秩序を維持するために働き、多くの人々は、それを、自分には直接ふれてくることのない特別な事例を扱ったものとして了解する。
ところが、それがこのように意識心情の世界にまで無制約に拡大してくると、すべての人の日常の心づもりにふれてくるし、単にふれてくる、というだけではなく、これが法の規定の拡張として考えられ、それを犯せば決定的な審判の前に立たせられると言われているだけに、もしもこういう言い方が正しいとすれば、人はそこに無限の脅しを感じざるをえない、ということになる。
田川 
読みやすく改行している。

そして、吉本隆明の言葉を紹介する。
思想としては実に徹底していてすぐれているけれども、すぐれているからとて、正しいとは言えない
というのである。

それで、もしあなたの右の目があなたを罪にさそうならば・・・
という、箇所は、マタイと、イエスの、発想の相違を知る上で、基本的な手掛かりを与えるという。

つまり、マタイは、それを、つなげて、書いているのである。

伝承の歴史から、見れば、それは、つながっていなかったのであると、田川氏は、言う。

マタイは、イエスの言葉を、結びつけることによって、律法の徹底化を図ろうとしたのである。
つまり、創作された、福音書なのである。

つまり、マタイはこれを実現可能な倫理規定として考えていたことになる。第二に、マタイがこれをただの倫理規定としてではなく、律法的な規定として考えていたことは、29節以下に罰の理念があらわれていることから知られる。・・・
マタイは、山上の説教の反対命題全体を律法の完成として見ていたのである。
田川

イエスの言葉を、勝手に、作り変えたのである。
自分の思いの、ままに、である。

それでは、イエスは、律法の概念を、何故、意識の世界にまで、拡大したのか。

それを、田川氏は、
このことを論じる前に、多少の字句の問題に拘ってゆこう。「情欲をいだく」と訳した単語は一単語の動詞であるが、聖書学者たちがふつう問題にするのは、この動詞及びその前につけられたpros(ために)という前置詞をどう解するか、ということと、「女」という単語の意味である。
と言う。

直訳すると、女を情欲するために見る者は、ということになる。
つまり、情欲するために、女を見るということである。

具体的な、性行為をすることを、目的として、女を見るのである。

情欲を抱く、のではない、ということ。

「情欲するために見る」という「ために」の前置詞であり、「情欲を抱いて見る」のではない。

見るのは、情欲するために、見るのである。

性的欲求を起こすために、見るのであり、単に、眺めの中に入ってきた、女を見て、欲望を起こすのではない。

だが、しかし、研究家というものは、ご苦労なことである。
たかが、そんなことに、血眼になるのである。

私は、モーセの十戒にある、古代の、考え方に興味を持つ。
女が、男の、所有物であり、姦淫とは、他の男のものの、所有権の、侵害だとする、考え方である。
そこには、現代でいうところの、性道徳などではないということ。

女という、単語は、人妻と同じであるということ。

今なら、人権侵害であり、とんでもない、差別である。
つまり、ユダヤ教というものが、そのように、作られたという、作為に、私は、驚く。

完全に、父系社会の、創造である。
この、父系社会が、ただ今、歴史というものを、造り上げてきたのである。
つまり、戦争の歴史である。

更に、続ける。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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