2010年07月09日

神仏は妄想である 298

怒るのは神であって、人間は怒ってはならない、という発想が強くなっていく

キリスト教発生以前のユダヤ教が全部そうだというわけではないが、この傾向は特に知恵文学に系統においてはっきり出てくる。「怒りやすい者は愚かなことを行い、賢い者は忍耐強い」(箴言の書)など。もっとも、知恵文学の場合、イスラエルの伝統的な発想だけではなく、外来の処刑訓も加味されて、感情的に激するのは愚物であって、賢い人間はいつも冷静さを保つ、と言っているのだが、そういう処世訓が神観念へと疎外された「怒り」に結びつく時、人間の怒りは神に逆らうことであって、怒ることは神にのみまかせておけばよいのだ、という考え方になっていく。
田川

作られていく、感情であり、更に、神観念の中に没入させるという、手である。
それを、神観念へと、疎外すると、表現する、田川氏である。

いよいよと、偏狭な心境に入っていくのだが、それは、何も、ユダヤ、キリスト教だけに、言えることではない。
宗教のすべてが、神観念や、仏観念へと、疎外するのである。

つまり、信仰が、深くなれば、なるほど、そういう傾向を帯びる。

私は、もう一つ、別な言い方をする。
疎外する、つまり、逃避するのである。

たとえば「ソロモンの詩」では、「私の舌と私の唇を真理の言葉でつつみ給え。怒りと不合理な憤りを私から遠ざけ給え」という祈りが出てくる。そして、「怒り」は人間の持つべきものではない、ということを、「ベンシラの知恵」ははっきり言い切っている、「心の憤りは女から生まれた者のためにあるのではない」。「女から生まれた者」つまり人間には、怒ることは許されていないので、怒ることができるのは神のみである、というのだ。
田川

新約聖書において、「怒り」は神の意志に逆らうことだ、とみなす見方の理解がつく。当時のユダヤ教のこれらの文章、ことに知恵文学では、人間の怒りは非理性的な感情の爆発として退けられている。右に「心の憤り」と訳した句は、むしろ「情の怒り」と訳すべきで、ていねいに言えば、「憤りの感情のもつ怒り」という意味である。このように、人間の持つ怒りを愚かな感情のほとばしりとみなし、正統な、あるべき当然の怒りは神のみ帰する、というところに、宗教的な疎外の特質がある。正統な怒りを神にのみ帰してしまったら、しいたげられた民の腹の底から煮えたぎる怒りを神への不従順として抑圧してしまうことになるのである。
田川

これが、宗教指導者、支配層の、狙いである。

こういう、ものの考え方、つまり、ヘレニズム的な、世界支配の中で、私的個人の、安心立命を願う、ユダヤ教の、知恵文学、ローマの世界支配の中で、私的個人の、宗教的救済のみを、願う、パウロや、その亜流に、主として、現れるのである。


このように、実に、偏狭で、矮小である。
宗教とは、人を、支配するために、とことん、練られた、巧みな言葉の世界であると、言える。

そして、それは、人間によって、作られているということである。

「怒り」というものをすべて感情的な動きの類似性からのみ形式的に一般化して、一切の怒りは愚劣な感情の動きだ、などと断じられたのでは、やりきれない。
田川

しかし、イエスは、随分と、怒る。
新約聖書には、イエスの怒りの様が、四福音書に、多く記される。
これは、怒りを発することが、出来ない、民の代わりに、怒る如くである。

そして、イエスの、怒りは、支配層、指導者層に、向けられた。

マタイ教団は、それを、どのように処理しようとしたのか。

マタイ教団では、イエスの言葉、反対命題を、旧約聖書的教条に対する批判的対決とは、解さず、むしろ、彼らの「義」の完成という発想で、捉えた。
旧約聖書では、不十分な、「義」というものを、より大きく、十分に完成したものであるとする。

しかし私はいう
という、イエスの言葉を、それより、よりよく、より徹底して、言うと、解釈されたのである。

旧約的教条に反対するのではなく、完成命題とした。

山上の説教とは、イエスの強烈なユダヤ教批判と、マタイ教会のユダヤ教を発展的に継承しようとする視点との、ごった煮なのである。
田川

つまり、マタイ教団も、ご多分に漏れず、ユダヤ教のみならず、宗教的に、作り上げていく、教義なのである。

田川氏は、神学者であるから、多くの例を、引いて、解説している。
私は、それを、省略する。

マタイは、精神主義である。
すべてを、精神主義に、拡大して、発想する。

重要な問題は、正当な怒りはすべて神のみに属する、という宗教的に疎外された発想の中で、社会的に抑圧された者の怒りすらも骨抜きにされていく、というからくりをしっかりと見抜いておくことであろう。
田川

マタイは、精神主義的な、教団内倫理と、ユダヤ教から継承した、宗教的に疎外された、「怒り」の理念を定着させることになる。

ところで、兄弟に対して・・・怒る者は・・・
異教徒に対してではない。

同じ信徒同士のことである。
兄弟を殺す者は、裁かれる。しかし、異教徒を殺した場合は、裁かれない・・・

とっても、狭義の意味での、教義であろうか・・・

キリスト教徒が、イスラム教徒を、殺しても、問題は無い。
または、それほど、重要なことではない。
こうして、無明の教義が、作られていく。
疎外が、逃避になり、そして、何かを忘れていく。信仰というものの、闇である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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