2010年07月07日

神仏は妄想である 296

イエスの時代の、ユダヤでは、まだ、大土地所有者と、大商人とが、分離していなかった。

大土地所有者は、彼らの、広大な土地に、バルサム材、棕櫚の木を植えて、これから取れる、高価な薬品、香料を輸出することで、莫大な、利益を上げるだけではなく、小麦まで、国内の需要さえ、十分でなかったにもかかわらず、利益のために、輸出していたのである。

他方、彼らは、国内においては、穀物の買占めを手段とする、投機によって、あくどい商売をしていた。

穀物の隠蔽が、行われていたことは、旧約聖書、箴言の書にも、出ている。

穀物を、しまいこんで、売らない者は、民に呪われる。それを、売る者の頭には、祝福がある。
箴言の書

これ以上、詳しく書かないが、実に、ユダヤ人というものは、自国民にたいしても、冷酷だった。
更に、差別主義である。

古代は、穀物の生産が、自然条件によって、大きく支配されていた。
市場価格を一定に保つことは、問題にならなかったのである。

イエスの、時代は、穀物4セアの、通常値段は、1セラ、1デナリであった。
バケツ一杯ほどの、穀物の値段は、日雇い労働者一日分の、平均給与に当たる、1デナリであった。

そして、エルサレムの市場管理者は、最高価格を抑えることはせず、購買量を制限していた。

このような、大農場経営に、立脚する、古代資本主義経済機構は、ローマ市民共同体から、巨視的に見れば、奴隷を含む、いわゆる外人に対する、そして、これを、属州ユダヤの自治体から見れば、小農民に対する、経済搾取によって、成り立っていた。

ユダヤの、農民は、小土地を私有する独立自営農民の場合でも、多くの場合は、その農具を、大土地所有者から、借金によって、買うか、あるいは、彼らから、一定の額で、現物を貸付されるかして、農業を営む状態だった。

そして、その借金は、補遺率で、禁止されているにも、関わらず、実際には、利息がつけられていたことは、ラビ文献でも、福音書でも、確認される。

このような、生活状態の中で、ある程度生活を安定させるには、小農民は、家内手工業や、小規模な家畜の飼育、そして、ガリラヤでは、漁業を営んでいた。
だが、それでも、生活が出来ない場合は、土地を放棄し、小作人になるか、町に出て、日雇い労働者になるか、負債奴隷となるか、女の場合は、売春である。

ユダヤにおいて、奴隷は、他のローマ属州と違い、七年ごとに来る、安息年に、自動的に開放されるという、掟があったので、比較的、人道的な扱いを、受けていた。
だが、この、掟が、完全に守られていたことは、疑わしい。

解放後に、進んで、奴隷になる人、奴隷と、ならざるを得なかった人もいる。
特に、このような、状態にある者が、障害者となったり、重病になった、場合は、極めて、悲惨だった。

さて、イエスの時代、祭司と民衆の間に、社会層上の、区別は、明確ではなかったという、事実である。

貴族祭司が、大土地所有者であり、大商人であり、最高法院の頂点に立って、ユダヤ自治組織の体制を、動かしていたことは、確かであるが、下級祭司、いわゆる、レビ人たちは、むしろ、小農民と、同列か、それより、低い経済状態を、余儀なくされていたのである。

ユダヤ古代史によれば、
祭司の中資力を失った者たちは、貧困の中に死んでいった
と、ある。

この時代、祭司の間にも、階級ギャップが、生じていたのである。

持てる者は、与えられ、持たざる者は、持てるものまでも取り上げられるであろう
マルコ、マタイ、ルカ福音書

イエスの活動した、ガリラヤは、ユダヤに比べて、自然状況に恵まれていた。
ユダヤは、ガリラヤなしに、経済的に、成り立たなかったといわれる。

エルサレム在住の、貴族祭司、大土地所有者は、その土地の、多くを、ガリラヤに持っていた。更に、律法学者、パリサイ派の人々は、ラビとして、ガリラヤの会堂を支配していたのである。

また、ユダヤで、土地を失った農民が、ガリラヤで、漁師などの、職、仕事をしていたと、考えられる。

また、面白いのは、ユダヤ教の反主流派組織も、多々あった。
それらは、省略する。

更に、メシアと、名乗る人々も多数いた。

福音書に、登場する、サマリアについて、少し書く。

サマリアは、ガリラヤと、ユダヤの中間に、位置する。
この地域は、ガリラヤと共に、アッシリアの一属州に、編入されて以来、イエスの時代に至るまで、ユダヤとは、接触がなかった。

ユダヤ教とは、異なる、サマリア教が、成立していた。
だが、それも、旧約聖書の、モーゼ五書だけを、経典とみなして、エルサレム神殿を拒否していた。

そして、預言者の降臨を待望していた。

そのため、ユダヤ教徒と、争いが、絶えなかった。
ガリラヤ人や、ユダヤ人が、サマリアを通ることさえ、不可能だった。

だが、ローマ帝国から見れば、サマリアも、ユダヤ州の一部であった。

イエスは、生涯の大半を、ガリラヤで過ごし、最後に、エルサレムに上り、その地で、十字架刑という、極刑に処されて、没するのである。

ユダヤ社会においての、差別は、甚だしく、貧者、最悪の場合は、小家畜飼育者、日雇い労働者、売春婦、奴隷、障害者、病人、それらは、農民層から出ていた、人々は、ラビたちから見れば、律法を守らない、宗教的、社会的な、差別の対象だった。

だが、事実は、律法を守らないのではなく、守ることが、出来なかったのである。

あるいは、守ることの出来ない、状況に置かれていた。
彼らは、ローマ当局から、人頭税、間接税を徴収され、ユダヤ自治機構からも、神殿税を課せられていた。

そして、大土地所有者からの、投機による、被害を、直接受けていたのである。

それを、ラビたち、パリサイ派が、宗教的差別の、対象として、攻撃していた。

なんと言っても、宗教というものによって、正当化する、彼らに、対抗できかる、何物もなかった、悲劇の人たちがいる。

イエスは、その、彼らの側に、ついたのである。

つまり、現代で、言えば、決して、社会的権力、権威を持つ、教会の司祭たちの側ではなく、それらに、搾取され、虐げられた、人々の側について、
もし、神がいるなら、それは、あなたたちのために、存在すると、声を上げて、叫んだのである。

キリスト教国がある。
しかし、貧しい人たちは、教会の中にも、入ることが、出来ない。
それを、私は、見ている。

日本の、キリスト教徒を見て、キリスト教徒を、想像しない方が、いい。
日本の、キリスト教徒は、イエスの存在の無い、キリスト教である。

妄想、熱に浮かれた、イメージ信徒、生ぬるい、信仰という、遊戯に遊ぶ、信徒の群れである。

更に、日本の
司祭、牧師たちは、生活の保障がされて、痛くも、痒くもない、安穏とした、状況の中にいる。
そこで、あたかも、悩んだ振りをして、信徒を、導き、尊敬を受けて、実際は、惰眠を続けている。
だが、その中途半端な信仰によって、ユダヤ魔界と、その魔神と、真剣に取り合わないことが、救いでもある。

ちなみに、彼ら、クリスチャンの言うところの、聖霊、そして、霊性なるものは、無い。
妄想である。

もし、本当に、霊性が、あれば、即刻、教会から、離れる。
その神は、魔神であるからだ。

ヤハウェの天の国に、入っても、救われない。
更に、主イエスも、そこには、いない。

嫉妬と、裁きの神の元に、愛の神を、説く、イエスがいれば、イエスの教え自体が嘘であるといことになる。

だが、鋭い、霊能力で、観れば、黒い神が、白い神を、創造したとある。
魔神が、その姿を、見せずに、善なる姿の神を、創造したことになる。

混乱の極みである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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