2010年06月23日

神仏は妄想である 282

サムイェー寺の論争以降、チベット仏教の主流は、インド仏教と、決定した。

ただ、すでに発生していた、ニンマ派は、頓悟仏教要素を取り入れ、更に、禅を通じて、中国の道教思想も、取り込んでいた。
ニンマ派が、最高の修行法とみなす、大究境は、密教、禅、道教、そして、ポン教が、複雑に、絡み合ったものになった。

次の王、ティデ・ソンツェン王も、父と同じく、仏教を擁護し、仏典のチベット語の、翻訳に、大きな力を注いだ。

この王の、時代に、仏教訳語が、統一され、その後の、翻訳事業に、大きな影響を与えたのである。

九世紀半ば、仏教弾圧の伝承で、有名な、ダルマ・ウイドゥムテン王が、即位した。
実際に、弾圧したかどうかは、近年の研究では、疑問視されている。

ただ、この王が、暗殺されたことにより、古代チベット王国は、崩壊し、仏教も、衰退の道を辿る。

これまでの、仏教は、王権により、擁護されたものであり、民衆に支持を受けていたわけではない。よって、王権が、滅ぶと共に、滅んだのだ。

その裏側では、パドマサンパヴァに象徴される、密教呪術が、広く、民衆の間に、浸透していったのである。

さて、チベット仏教は、一度、滅びたが、次の、時代まで、100年を要する。

14世紀から、仏教弾圧までを、前伝期といい、この時期の密教経典を、古訳と呼ぶ。
中央チベットで、戒律の伝統が復活した、10世紀後半以降を、後伝期と、呼ぶ。
そして、それ以降に、入った、密教経典を、新訳と呼ぶ。

古訳を奉ずる人たちを、ニンマ派と呼び、新訳を奉ずる人たちを、サルマ派と、呼ぶ。

そして、仏教教団は、王室による、保護を失ったために、以前とは、異なる、形をとらざるを得ない。
新たな、形態は、傑出した、僧のもとに、弟子たちの集団が作られるもので、宗派集団が、現れたのである。

このように、教団が、成立したのも、100年以上に渡る、混乱期に、仏教が、民衆に浸透し、民衆の支持を得られたゆえである。

さて、10世紀の前半に、西チベットに、古代チベットの、末裔たちが、新王国を建設した。
この王国は、グゲ王国と、呼ばれ、歴代の王たちが、古代チベット同様に、仏教を保護した。

彼らは、戒律を重んじる、出家仏教を望んだが、成功しなかった。
この頃、インドにて、無上ヨーガタントラ系の、密教が、全盛期を迎えていたからである。

そして、後世への影響に、大きな足跡を残したのが、アティーシャである。
在家密教に、身を投じ、性的ヨーガを実践して、悟りの境地を得たといわれる。
しかし、在家のあり方に、疑問を持ち、30近くになって、出家し、あらゆる仏教を学び、インド最高峰だった、寺院、ヴィクラマシーラ大僧院の学頭の地位を得たといわれる。

グゲ王は、このアティーシャを、チベットに招いた。
彼は、西チベットをへて、中央チベットに入り、ラサ郊外のニェタンで、客死するまで、各地を、周り、教えを説いた。

アティーシャは、密教は、無上ヨーガタントラ系の信奉者であり、顕教は、中観仏教であり、個人的には、観音菩薩を信仰していたと、伝えられる。

アティーシャは、王の要望に応え、仏教を、簡潔にまとめる。
小乗、大乗、密教に、それぞれの価値を認め、それらを、一つの体系にまとめ、更に、密教の、無上ヨーガタントラに、至高の価値を与えた。

顕教と、密教を、一つに統合する可能性を示したといえる。

以後、チベット密教は、これが、主流となる。
やがて、ゲルク派の、開祖、ツォンカパによって、壮大な体系に、まとめられることになるのである。

アティーシャの、後継は、カダム派を創設し、戒律を厳しく守る、僧院仏教のモデルを示し、後世に、大きな影響を与えた。
カダムとは、伝統的、という意味である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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