2010年06月17日

ラオス・ビエンチャンの醒めない眠り 3

いつものことだが、支援する状況は、その時になってみなければ、解らない。

私は、出発の、三時まで、部屋で待機していた。
出来るだけ、外に出ない。
歩き回れば、熱中症になるだけである。

三時になり、私は、バッグ二つを持参して、ロビーに降りた。
すると、タクシーは、すでに来ていた。
タクシーといっても、大型のバンである。

英語の堪能な、おじさんが、運転手だった。
その英語は、訛りなく、聞きやすい。

乗り込むと、市内の、ある親のいない子供たちの、家に行くという。
それは、聞いていなかった。
もっと、遠くを意識していた。

オッケーと、私は、答えて、おじさんの英語の説明を聞いていた。

どこで、身につけたのか、文法も、正しい。
ブロークン英語ではない。

ラオスは、中年以上の人は、多く、ソ連に留学していたという。だから、ロシア語は、話すが、英語は、出来ないと、聞いていた。

若い人は、勿論、英語である。

市内の、孤児たちの家には、すぐに着いた。

その、玄関は、鉄格子で出来ている。

子供たちの、数人は、椅子に座り、後ろ向きであった。
おじさんが、何か言う。

私は、その後に、ついていった。

子供たちが、集まって来た。
私は、早速、ぬいぐるみを取り出して、一人一人に、渡した。

コープチャイ、と、口々に言う。
ありがとう、である。

私は、おじさんに、写真を撮ってもらうべく、カメラを渡した。
その時、一人の、世話役の青年が、写真は、駄目だと言う。

そこから、少し違うと、感じてきた。
私は、私だけでも、いいから、写真を撮るといった。

そして、彼に、子供たちに、衣服を上げてもいいのかと、問い掛けた。
おじさんも、同じように、言う。

しかし、返事がない。

私は、次第に、興奮して、オッケーか、ノーかと、再度、尋ねた。
それでも、青年は、何も言わない。また、世話役の青年たちが、二三人出てきた。

そのうちに、何となく、解ってきた。
突然の訪問で、戸惑っているのである。
そして、社会主義の、あの、閉鎖性である。

写真を撮るなということは、見せたくない、知られたくないと、考える。

市内には、ストリートチルドレンの姿がない。

隠したいという、思いである。
そして、上司の命令がない場合は、どうしていいのか、解らない。
突然の、訪問に、対処する方法がない。

こんなことは、初めてである。

子供たちの、服装は、着の身着のままである。
洗濯もしていない、衣服を着ている。

そして、一人の青年が言った。
これだけで、いいです、と。
つまり、ぬいぐるみ、だけでいいというのだ。

オッケー
私は、バッグを持って、引き返した。

そして、おじさんに、郊外に出て欲しいと言った。

ここで、後で解るが、郊外に行くことで、料金が変わったのだと、おじさんは、後で言う。
最初の約束と違うのである。

最初は、郊外に出るという、話で、交渉したはずである。

それは、また、後で書く。

おじさんは、車を走らせた。
しばらく、走らせた。

その間に、おじさんは、チャイニーズのことを言う。
そして、私も、チャイニーズだと、思ったという。
更に、チャイナの話である。

あまりに、中国の話が多いので、私は、チャイナ イン ラオスだろうと、言った。
つまり、中国の中のラオスになるのだろうと、言ったつもりだ。

すると、おじさんは、黙った。

昨年の、12月に、アジア競技大会が、開催されている。
ラオスの、威信をかけて、である。
しかし、すべて、中国の支援で、出来た。
それにより、ビエンチャンに、中華街を造り、五万人の、中国人を受け入れるのである。

きっと、そのことを、誇らしく思っているのだろうが、私から、言えば、中国に取り込まれるだけである。

車は、20分以上も走り、一つの、村の入り口に、到着した。




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