2010年06月05日

神仏は妄想である 264

インドの伝統である、タントラの説明をした。

さて、そして、桐山氏の、お説である。

真言密教に「虚空蔵菩薩求聞持聡明法」こくうぞうぼさつぐもんじそうめいほう
略して、「救聞持法」がある。

かつてこの法を修行して大天才になった空海は、その著「三教指帰」にこう書いている。
「ここにひとりの沙門あり。余に虚空蔵求聞持の法を呈す。経にいわく、もし人、法によりてこの真言一100万遍を誦すれば一切の教法文義暗記することを得んと。大聖の誠言を信じ、阿国大滝の嶽に登りよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響き惜しまず、明星来影す」

満願の日、明星が飛んで、空海の口に入るというのである。

私は、かつて、この法を、自分の体験にもとづき、「目がカメラになり、耳はテープレコーダーになる」と表現した。
実際に、この法によって訓練した頭脳は、一度、目にし、一度、耳にしたことは、ぜったいに忘れぬ記憶機構を持つようになる。しかもそれはただ単になんでもおぼえてしまうというだけではなく、創造力を飛躍的に増大させ、発想が常人とまったくちがうようになる。まさに、大脳の生理機構が一変してしまうのである。
桐山靖雄 密教入門

更に、これが、即身成仏を可能にする、頭脳を作り出すというのである。

常人と全く違うようになる。
当たり前である。

七日間の断食と、一日四回の滝行を兼ねた、吹雪の中の、荒行に入って、彼は、苦行の頂点に立ったという。

そのときわたくしは一種の異常感覚の境にはいっていた。わたくしのからだの奥ふかくでひとつの機能が死にものぐるいでたたかっているのが感じられた。それがどのようにしてたたかっているのか、そのときのわたくしの目ははっきりととらえていた。そのとき、肉体の目は全く消失し、べつな目が肉体の外にあってわたくしを見つめていた。その目はわたくしの内臓のすみずみまで見透していた。
桐山

その分析を、このように言う。

副腎とよぶ機能の高まりであったこと、そうしてそれは、クンダリニー・ヨーガで、ムラダーラ、およびマニピューラとよばれるチャクラの部位であるとこがわかったのである。
桐山

そして、ヨーガの体得に深く没頭したという。

確かに、その苦行の努力は、壮絶なものである。
しかし、釈迦仏陀は、それを、否定して、仏法を語ったのである。

七日間の断食と、滝行での、荒行をすれば、どこかが、変化するのは、当たり前である。
更に、異常感覚を持つことも、当たり前である。

そして、即身成仏するための、頭脳を持つに至るという。
そのように、信じたということである。

彼も、信じなければ、始まらないと、鎌倉仏教の開祖たちのようなことを、言う。

明けの明星が、口に入ったという、空海の、体験も、異常である。
そして、それは、本当に、異常なのである。

明星の、響き、波動を受ける、それと、同じ波動になる、同化する、などなど、何とでも言えるが、それは、異常なことなのである。

異常なことを、通して、人生を観るという行為を、釈迦仏陀は、否定した。

勿論、仏教ではなく、新しい宗教だというならば、それであろうが、それでも、異常である。

火事場の馬鹿力などのような、修行を真っ当にやるというところは、認められるが、それだけのことである。

ただし、彼が言う、既成の、真言密教などは、すでに、死んでいる。
単なる、バラモンの、ヒンドゥーの、儀式の、真似事で、終わる。
真似事は、真似事である。

後は、理屈のみ。
これでは、桐山氏には、適わない。

兎に角、桐山氏は、師匠なくして、一人で、それを、行った。それには、彼の、特異体質があったと、自身で言う。

だが、得意体質ではなくても、しっかりと、教えられれば、出来ると言う。
それが、彼の宗教の、存在理由である。

体験をし、更に、それを、理論的に、様々な、分野から、解釈する姿勢には、尊敬を覚えるが、矢張り、異常は、異常であり、異常である行為でなければ、即身成仏のための、頭脳が作られないならば、止めた方が、無難である。

多くの人、精神的に、おかしくなる。
師匠が、ついていても、異常から、抜けられない。

精神的に、おかしくならない人は、数少なく、更に、鈍感であり、桐山氏のようなわけには、いかないのである。

あくまでも、その人、一人の、身にあてはまることである。

ちなみに、その程度の、修行ならば、インドに行けば、どこでも、出来る。
勿論、皆、精神的に、おかしくなるか、迷いの道に入る。

心身脱落して、悟りの境地に入ったという、インド帰りの人に、多くあったが、たまたま、精神病にならなかっただけの話で、他の人は、そのまま、おかしくなり、インドに、留まるのである。

民族的な、体質の違いもあるが、それは、特異体質であり、異常な出来事である。

荒行とは、山岳信仰、山伏などが、得意な分野であるが、彼らは、社会生活が出来ないほど、精神を、心を、やられる。
社会不適応の者、実に多い。
そして、頑固であり、融通が利かない。

ただし、それも、そのようにしか、生きられないから、そのようであると、言える。

吹雪の中で、滝に打たれるという、異常は、尋常ではない。
肉体を、極限まで、追い詰めるという、難行苦行は、釈迦仏陀が、体験して、必要無しと、認めたものではないか。

更に、ヨーガの、チャクラの問題も、妄想である。
チャクラというならば、肉体のすべてが、チャクラである。

神経も、リンパも、経絡といわれる肉体の、経路も、すべて、肉体の全体を回る。
気の流れというものも、肉体全体に、行き渡るから、生きているのである。
そこに、特別な、点を設ける必要はない。

この人の言う、即身成仏するための、頭脳を作るというのは、超人になるということなのである。
その、超人が、仏というものなのであろう。

だが、完全に何かになるという、妄想は、消えないようである。

それを、もう少し見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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