2010年06月01日

神仏は妄想である 260

チャクラについての、詳しい話は、省略する。

確かに、体の、部分には、特別な、意識の焦点があることは、否定しない。
だが、私は、体のすべてが、チャクラだと、考える。
チャクラという、観念を持つならば、である。

自己に意識を、向けるという、方法の一つが、タントラの方法であり、それが、インドの伝統的、瞑想法なのである。

タントラの思想が他の思想とくらべて際立っている点は、男であれ女であれ、人間はだれでも今いるこの現実世界から目をそらさずに生きていると信じるところにある。つまり逆に、タントラは、精神的であれ、物質的であれ、あるいは性的にであれ、自分を取り囲む生の営みに全面的に没頭するよう、われわれの目を向けさせるのである。
ムケルジー

われわれをがんじがらめにしている人間の本性的な側面そのものが、実は解脱への踏み石になりうるのである。
ムケルジー

人間の本性的な側面が、がんじがらめにしている・・・
だが、それが、解脱への、踏み石になりうる・・・

煩悩即菩提という、詭弁がある。
それと、同じことを言う。

こうした考え方に立てば、セクシャルな衝動もまた、無限と有限とが一つであることを示す宇宙の真理の扉を明けるための道なのである。「アーサナ」すなわちヨーガの姿勢をとって、男女の交合が成し遂げられるや、われわれは歓喜を味わうとともに、それぞれの可能性に目覚めることになる。
そして、
交合のあいだ、男女は行者として周囲に気をとられることはない。その心は解脱を願って燃え上がる。セックスのエネルギーを持続させることで、内面圧が高められる。こうしてセックスの活力がきわめて強力な潜在力に変えられる結果、霊魂が解脱にいたるのである。
ムケルジー

つまり、セックスタントラである。

インドには、カーマ・スートラとともに、四つの性の解説書がある。
それぞれが、影響しあっているのだろう。

享楽主義に根ざした人間の快楽を求める衝動も、精神的な経験に変えることができるのである。
という。
快楽主義の肯定である。

大きな快楽に身をゆだねても、それが正しい手ほどきと正しい動機付けがなされるならば、そのこと自体が一つの精神活動とみなすことができる。

インド人の、屁理屈全開である。

人間の肉体は全体として、確かに生物としての働きや心理的な働きがありながら、宇宙の力が自由奔放にあらわれる一つの道具となるのである。
ムケルジー

おのれのなかで、相対立するものを一つとすることで、それぞれの人間は、すべての経験を調和させ、そうして二元性を捨て去り、現象世界を超える。
ムケルジー

改めて、申すまでもなく、そんなことは、潜在的に、知り得ることである。
ただ、相対立するものを一つとし、二元性を捨て去りとは、観念である。

ここで言う、人間の側面、つまり、余計なものは、人間を生かしているものでもある。

性的欲求、欲望までも、タントラに取り入れて、それに、理屈をつけて、合一思想などを、語るということに、私は、一緒の、魔術的、怪しさを感じる。

現象世界を超えるというが、現象世界を超えて、どうするのか。
今、生きている、世界は、現象世界である。
その、現象世界を生きるという、命題が、生きることであろう。

超えて、どうする。

また、超えられると、考えること自体に、迷いを感じるのである。

タントラの図形には、男性原理と女性原理、つまり、「二にして一なるもの」の静止の面と活動の面が描かれている。かれらは触れ合える限り触れ合い、抱き合っている。このことは、二つのものが本来的に一つになるといった、相対立する力が全体として融和してしまうことを示している。
ムケルジー

様々な、セックス体位の、図が、描かれている。

結合させた男女が織り成す、肉体の結び目、つまり、交合の様が描かれる。
スタイルの異なる、84の基本体位がある。
実行可能で、心身に有益であることが、体位決定の条件となる。
可能な限り、全感覚を高めるのである。

それが、正しい動機付けと、正しい手ほどきが、必要であると、言う。

魂は、個人と宇宙が同一であることを、忘れ、解脱を得るまで、輪廻を繰り返すという、考え方がある。

インドでは、早くから、輪廻の思想が、幅をきかせていた。
勿論、仏教も、それを、取り入れている。

そのように、考えてもよい。
更に、輪廻思想を、主にして、生きることも、良い。

だが、解脱という、超越感覚は、非常に危険である。
宇宙と、同一である、意識に、あい成りました。
つまり、悟りました、である。

実は、悟らなくても、宇宙と、同一化しているのである。
何も、特別なことをしなくても、宇宙と、一体になっているのである。

何故なら、宇宙の外では、生きられないからである。
それを、強く意識せよ、ということなのだろう。
意識しても、しなくても、あるべきように在るのである。

このような瞑想を深めていくと、人は自分および世界について、新たな観察を加える力が身についてくる。事実、もし人間が相対的な見方に執着するような態度を毅然としてこばみ、それを乗り越えようとするならば、相対的な見方がどれほど輝かしいものであっても、それに縛られるようなことはないのである。

この「悟り」とは、いったいどんな意味があるのだろうか。悟りをひらく道、つまり悟りとは何かをわれわれに理解させてくれる道がみいだされないがきり、それはわれわれの理解を超えたものとなる。これが、タントラ・ヨーガの道である。ヨーガは、最も高度な精神集中をする上で必要なのである。このヨーガによってのみ、人は無意識のなかに眠っているすべてを展開させることができるのだ。
ムケルジー

つまり、狂うということである。
無意識の中に、眠るものを、すべて展開させれば、人は、狂うのである。
狂わずにいるということは、無意識のすべてを、展開させていないという、ことである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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