2010年04月01日

救われないマニラ・救いようのないフィリピン 1

寒い日が、続いていた。
三月に入っても、寒い。

フィリピン行きは、9日である。
支援物資は、すでに、用意していた。
おおよそ、60キロである。

マニラで、昨年の暮れに、水害があったことから、それらの人々にとの、思いである。
しかし、水害だけではなかった。スラムの大火事も、あったという。

それらの、人々は、ビーチ沿いに、退去していた。
そこで、暮らしていたのである。

朝は、六時にタクシーを予約して、成田行きのバス乗り場に出た。
コートを着ていないので、実に寒かった。
だが、あちらは、暑いので、いつものように、襦袢は、夏物の、絽の襦袢に、袷の着物と、袷の羽織である。

台北で、乗り換えする。
支援物資は、矢張り、分量が多く、少しばかり、搭乗手続きで、戸惑った。
だが、機内持ち込みを、少し増やして、無事に、チェックインした。

私は、バスの中で、お握りを二つ食べた。
コータは、何も食べていない。そこで、コータのために、食べる場所を探した。

クレジットカード会社の、待合室に向かったが、そこでは、食べることが出来ないと、知る。
無料のコーヒーを飲み、早めに、出国することにした。

まだ、出国手続きの、カウンターは、空いていた。
すぐに、手続きを終えて、乗り場に向かう。

十分に時間があるから、待合の椅子で、コータが、お握りを食べることにした。
私は、相変わらず、喫煙ルームに向かう。

マニラ到着は、夕方である。
日本時間より、一時間、早くなるのである。日本が、七時だと、フィリピンは、六時である。

私は、三度目であり、コータは、二度目である。
しかし、マニラに行くという気分は、重かった。

汚い、煩い、臭い・・・更に、危険である。
更に、・・・色々ある。

旅慣れたと、思う。
四年目に入り、余裕も出てきた。
追悼慰霊と、支援活動である。

今回の、追悼慰霊は、フィリピンの、慰霊の聖地といわれる、カリラヤという場所がある、パグサンハンという、町に行く。マニラから、バスで、三時間である。
そこでは、二箇所の、慰霊地に向かう予定である。

一つは、日本人によって、建てられた、慰霊碑が、多い、比島寺、ひとうてら、と呼ぶ。
そして、アメリカが、カリラヤに作った、広大な土地にある、戦争犠牲者追悼慰霊碑である。
更に、アメリカ軍、フィリピン軍の、犠牲者も追悼する。

その前に、マニラでの、支援である。
三泊して、支援物資を、すべて、差し上げる予定である。

実は、この旅日記を書くのは、少し憂鬱である。
今回は、フィリピンの批判が、多い。更に、フィリピンを、分析する。

そして、今回は、はじめて、マニラ首都圏のパサイ市という街で、スリに遭った。
パソコンや、カメラ、その他諸々を入れた、バッグを、一瞬の隙に、盗まれたのである。

パサイ市は、特に、スリ、かっぱらい、強盗が多い。
空港に近いせいもあり、犯罪多発地帯である。

それもあり、今回は、実に、厳しくフィリピンを、見つめた。

フィリピン、特に、マニラ首都圏では、ボランティア活動も、危険であると、言われる。政府は、ボランティア活動をする場合、福祉担当の部署に、申し出て欲しい旨を、入国の案内に書いているほどである。

ボランティア活動をしている際も、襲われる危険があるというものだ。

更に、銃社会であり、誰もが、簡単に銃を、持つ事が出来る。
アメリカの真似である。

深夜の、便で、マニラに到着する場合は、本当に、危険である。
タクシーに乗っても、二台の車で、前後を挟まれて、止められ、脅されて、物をすべて、奪われる事件が多い。

私たちも、フリーのタクシーに乗らず、チケットを買って、そのタクシーに乗る。
フリーのタクシーも、危険だと、言われる。
何処へ、連れて行かれるか、解らない。
特に、一人の場合は、より危険である。

そんな国に、出掛けるのは、フィリピンは、戦争犠牲者が、日本兵だけでも、50万人いるからである。

フィリピン全土を、巻き込んで、アメリカ軍と、大激戦を展開したのである。

現地の人たちにも、多大な迷惑を掛けた。

それもあり、衣服の支援も、積極的にしたいと思う。
更に、フィリピンは、貧しい国である。
その、貧しさも、構造的なものである。

いつまでも、成熟しない、政治と、行政である。

更に、人口の、2,3パーセントほどの、中華系が、経済、金融などの、大半を、牛耳るのである。
フィリピン人は、華人たちに、いいように、使われているのである。
更に、それが、法制化しているから、尚、悪い。

政治家の、搾取と、不正、も甚だしい。
地方の政治家は、中華系の場合も多い。



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