2010年02月09日

殺されるよりましだ・プノンペン 9

カンボジアの人口のほぼすべてを農村に送っただけでは、カンプチア共産党の指導者は満足しなかった。数ヶ月前にやっと定住したばかりの新人民のうち、非常に多くの割合の者は、新たな強制移住の地へと向かわなければならなかった。今度はいかなる発言権もなかった。たとえば、1975年9月の一月だけで、数十万人が東部地域および南西部地域を離れ、北西部地域へ向かった。青年と、低年齢の子をもたない成人を配慮したうえ、村から遠く離れ、時には何ヶ月もぶっつづけで訓練した「労働隊」のことは別にしても、三回も四回もつづけて移住させられることは珍しくなかった。
黒書

体制側の意図は四重だった。まず第一に、政治的リスクのある、新人民と旧人民のあいだの、また新人民同士の、永続的な絆をいっさい絶つことであった。第二に、新人民がなけなしの財産をもっていくことや、種を播いた作物の収穫を妨げることで、彼らを常に一層「プロレタリア化」することであった。第三に、住民の移動を完全な管理下におき、それによって大工事の着手や、国の周辺部にある過疎の山地やジャングル地帯の農地化を可能にすることであった。度重なる強制移住「時には徒歩で、よくても荷車で、あるいは一週間持つことができた場合、スピードが遅く超満員の列車に乗っての」は、栄養も不足で、薬のたくわえも尽きつつある人々にとっては、もはや耐えがたいものだったのである。
黒書

プン・ヤッタイの証言
それは実際には個人主義的傾向の持ち主を探り出すための調査だった。・・・・
これによって都市住民は自分の厭うべき傾向を捨て去っていないことを証明したことになる。こうして彼は、生活条件の困難できびしい村で、もっと厳格なイデオロギー的処置を受けなければならないことを明らかにしたわけだ。われわれはみずから志願することによって、自分自身を告発していたわけだ。誤りのないこの方法によって、クメール・ルージュは、最も不安定で、自分の運命に最も満足していない移住者を探り当てていたのである。

そして、それだけでは、済まなかった。
1976年から、1979年の間、粛清と大殺戮の時代が到来するのである。

住民を分類し、排除しなければならないという、狂気が、少しずつ権力の頂点に登りつめてゆくのである。

親ベトナム派と、フー・ユオンとが、早々に、抹殺された。
「王国政府」の外交官は、全員が、共産主義者というわけではなかったが、1975年に、召還され、二人を除く、全員が、拷問の上、処刑された。

しかし、それぞれの地域の初期の自治権が、かなり大幅だったより、第二に、経済の失敗が明らかになってきたことにより、第三に、1978年以降、国境地帯で、ベトナム軍が、たやすく反撃を展開したことによって、それまで、一度も正常な運営を経験したことがないように思われた、カンプチア共産党のなかで、裏切りの疑惑が、いっそう、掻き立てられたのである。

独裁政権の、たどる道、そのものである。

共産党の、序列で、第六位だった、ケオ・メアスが、1976年9月に、逮捕されて以降、加速的に、共産党の指導部は、内側から、貪られ、四部五裂の形相を呈するようになった。

裁判は、行われず、明白な告発すらなく、投獄された者は、全員、恐るべき拷問の果てに、暗殺された。

それは、将来、ポルポトの絶対優位を、脅かす恐れのある、すべての人々を、壊滅させるためだった。

ポルポトの、妄想は、スターリンを超えた。

「階級敵にたいし・・・とりわけわれわれの隊列のなかにいる敵に対して、熾烈で容赦なき死闘を」
「われわれの隊列のなかにいたるところに、中央にも、参謀本部にも、地域にも、基本組織の村落にも、敵はいるのだ」

この時、すでに、最高責任者13人のうち、5人と、地区レベルの書記の大半が、処刑されていた。

1978年の、新指導部メンバー七人のうちの、二人も、消されていた。
その中には、ポルポト自ら、脚を一本折るまで殴りつけたといわれる、副首相ポン・ベトもいる。

以後、粛清は、自動的に継続された。

CIAのスパイだという、密告が、三件あれば、逮捕されるのに、十分だった。

そして、更に、それは、下の組織にも、実行されていく。

住民、七万人の一つの、地区だけでも、CIAに協力する裏切り者だということで、四万人が、粛清された。

しかし、ジェノサイド的様相は、まだ、東部地域においてだった。
敵対的なベトナムが近くにあり、軍と政治の指導者、ソー・ピムは、この地域において、堅固な権力基盤を維持していた。

ここでしか見られない、現象として、地方幹部による、中央への反乱が、1978年の五月から、一ヶ月ほど、短期に内戦の形相になったのである。

しかし、四月には、東部地域の幹部、409人が、ツールスレン監獄に監禁されていたのである。

今は、博物館として、プノンペン市内に、それはある。
私は、全く、見る気にもならなかった。

六月に、ソー・ピムは、望みのないことを知り、自殺する。
彼の、妻と子供たちは、葬式をしていたところを、虐殺された。

これは、地域の武力勢力が、反乱を試みたのちに、ベトナムに移り、のちに、ハノイの軍隊と共に、プノンペンに進軍することになる、救国民族統一戦線の萌芽を形成するのである。

中央は、更に、東部住民を、クメール民族の体内にいるベトナム人、を、死刑にした。
その数は、10万から、15万人とも、いわれる。

更に、生き残った者は、他の地域に強制移住させられ、移住先で、皆殺しにされた。

北西部地域のある協同組合では、ベトナム軍が到着した時まで生きていたのは、3000人のうち、約1000人だけだった。これらの残虐行為は、体制崩壊の前夜にあって三重の転換の跡を印している。その第一は、女性も子供も老人も、成年男性とまったく同程度に殺戮されたこと、第二は、旧人民も新人民と同じように殺されたこと、第三は、この任務の大きさに手をつけられなくなったクメール・ルージュが、時として「75年世代」を含めた住民にむりやり虐殺を手伝わせたことであった。
革命は、狂気そのものになりつつあり、今やカンボジア人の最後までを呑み込もうとしていた。
黒書




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