2010年02月08日

殺されるよりましだ・プノンペン 8

キリング・フィールドから、戻り、部屋で休んだ。
昼の食事は、ホテルの並びにある、地元の人たちの食堂である。

おかずを選ぶと、ご飯がついてくる。
二人で、二百円程度だった。

それから、また、ホテルへの道を戻った。
そして、少し散歩をしてみることにした。

ホテルの前を通り過ぎて、向こう側へ渡った。
そこは、塀に囲まれてある、不思議な、街である。

その入り口で、日本語の、カタカナ文字を見つけた。
ニコニコハウスと書いてある。

中を覗いた。
子供が、数名いる。

どうして、日本語なのかと、疑問に思う。
そして、今日は、と、呼びかけてみた。

はーい、と、男の子と、女の子が、出てきた。
少年少女ではない。

大学生くらいか・・・
こんにちはと、もう一度言った。

ここは、日本に関係がありますか、と、尋ねる。
はい、日本の支援で、やっています。

国際ボランティア基金という、日本の団体から、支援を受けて、地域の、ストリートチルドレンたちに、食事と、勉強を教えているという。

ならば、と、私は、
文具とか、おもちゃなど、必要ですかと、聞いた。
はい、必要です。
それなら、後で、持ってきますね
私が言うと、二人は、ありがとうございます、と、答えた。

まさか、こんなところで、そんな施設を見つけるとは・・・

一度、私たちは、その施設を出て、少し、近所を見て回ったが、私は、先に、ホテルに戻ることにした。
コータが、もう少し、見るという。

私は、ホテルに戻り、文具と、おもちゃ類を、バッグから、取り出した。
本当は、衣類も、差し上げたいと思ったが、それは、街中の、子供たちに、上げなければいけない。

コータが、戻ったので、それを、持参して、もう一度、出掛けた。

今度は、大人数名もいた。

私は、持参したものを取り出して、どうですかと、尋ねた。
先ほどの、青年が、頂きますと、言う。

そこで、机の上に、それらを乗せた。
すると、男性の指導者であると思われる方が、ノートを持ってきた。

そして、名前と、持参したものを、記して欲しいと言う。

すべて、日本語である。
しかし、詳しい話になると、英語になった。

コータが、詳しい話を聞いている間、私は、持参した、文具や、おもちゃを、整理して、並べた。

あまり、多くはないが、とても、喜んでくれた。

この施設は、子供たちに、朝と、昼の食事を出して、勉強を教えていた。

私は、一番必要なものは、何ですかと、尋ねると、衣服というではないか。
衣服もあるのに・・・と、思った。
しかし・・・今、出してしまうと・・・
では、次に来る時に、衣服を持ってきますと、言った。

皆で、写真を撮ることにした。
必ず、また来ますと言って、挨拶していると、一人の若い僧侶が、やってきた。

そして、私たちに、話し掛ける。
ついには、彼の、部屋まで、行くことになった。

彼は、田舎から、学ぶために、プノンペンにやってきた。

彼曰く、私は、英語が話せます、しかし、私は、日本語で、話したいのです、と言う。

日本語は、ニコニコハウスで、一年間学んだという。

そういえば、何人かの子供たちが、日本語で、私たちに、こんにちはと、挨拶した。当たり前に思ったが、子供たちも、日本語を学んでいるのだ。

若い僧侶の部屋は、大人数で、生活している、一つのベッドだけである。

兎に角、彼は、日本語で、自身のことを、私たちに話してくれた。
不明瞭な言葉もあるが、何となく、解る。

言葉は、矢張り、話すことなのだと、納得した。

いずれ、彼は、自分の村に戻り、お寺を再建するという。

カンボジアでも、タイと、同じように、上座部仏教である。
であるから、人生に、一度は、出家の経験をする、男性もいる。

そのまま、僧侶として、人生を生きる人もいる。
その、僧侶たちの、住まいでは、子供たちに、色々と、教えているようだった。

私が見たのは、民族音楽を、教えている場面である。

彼とは、また、再会を約束して、別れた。
彼は、寺に住んで、大学に通って学んでいた。
兎に角、学問に熱心だった。

胸に篤いものを、感じた。
カンボジアの未来を、少し、見たような気がした。



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