2010年02月06日

殺されるよりましだ・プノンペン 6

キリング・フィールドから出て、トゥクトゥクを探した。
10台以上の、トゥクトゥクが、止まっている。

広場に出ていた私に、二人の少女が、近づいて来た。
二人は、裸足である。

私に、英語で、同じ言葉を繰り返しのである。

要するに、食べ物をください。私たちは、貧しいと、言う。

私は、日本語で、ちょっと、待っていて、今、あなたたちに、衣服を上げるから、と、言い、トゥクトゥクを探した。
コータも、探している。

トゥクトゥクの運転手が、居眠りしているのだった。

私の、大声で、目覚めたようで、向こうから、近づいて来た。

早速、二人の少女、小学四年生くらいに、見えたが、もっと、上かもしれない。カンボジアの子供たちは、小さくても、年齢が高い場合が多い。栄養のせいだろう。

バッグから、衣類を取り出して、二人に、差し出すと、どこからともなく、子供たちが、やって来た。

どんどんと、増えるのである。

子供用の、靴も持参していたので、裸足の子供たちには、大喜びだった。
サンダルや、運動靴のようなものもある。

大人も、やって来たが、その時は、子供用だけであるから、何も、差し上げることが、出来なかった。

学校帰りの子供も来た。
しかし、決して、豊かな様子ではない。
ある限りの、支援物資を出して、渡した。

コータが、向こう側にも、子供が一人いるのでと、上下の衣服と、ジャンバーを持って、向かった。

その間に、トゥクトゥクが、行き先の向きを変えて、コータを待った。

皆に、さようなら、と声を掛けて、その場を離れ、街に向かった。

慰霊と、支援は、この活動の、最たるものである。
それが、一度に、行えた。

私は、それに、満足したが、先ほどの、追悼慰霊の慰霊塔のことを、思うと、気が重たい。
あれは、一体何だったのか。

疑問と共に、怒りと、哀しみが、湧いてきた。
様々な、戦争犠牲者の追悼慰霊をしているが、今回の、犠牲者の死には、何の意味があるのだろうか・・・

ポルポト政権によって、抹殺された、人々。
ただ、生きているというだけで、殺された人々。

余りに、無残である。

疑問は、ますます膨らみ、帰国してから、徹底的に、調べてみようと、思った。

パンプレットに書かれていることでは、納得しない。

レーニン、毛沢東と、激しい虐殺を行った。そして、ポルポトである。
この流れに、共産主義という、思想がある。

何故、これほどの人の命を奪っても、共産という主義のために、殺されなければならなかったのかという、疑問。

トゥクトゥクは、また、酷い空気の街中に戻った。
私は、着物の袖で、口元を押さえた。

ホテルに戻るまで、その中で、我慢しなければならない。
更に、バイクの震動である。
体に、響くのである。
次第に、全身が、震動して、とても、疲れる。

日本で、このような乗り物は無い。
30分以上乗っていると、全身が、痺れたようになる。

だが、タクシーは少なく、一番手軽な、乗り物である。
プノンペン市内では、バイクの後ろに乗る、バイクタクシーか、トゥクトゥクである。

ようやく、ホテルに着いた。
明日の、予定を、運転手に告げる。

スラムに行きたい。その中でも、特に、貧しい人のいる場所だというと、運転手が、解ったと言う。

私は、おおよその、見当をつけていた。
が、運転手は、予想に反して、全く、私たちの、考える支援の場所に連れて行ったのである。

私たちは、部屋に戻り、すぐに、シャワーを浴びた。
そして、部屋のかび臭い匂いに、矢張り、ここは、出なければと、思った。

コータが、先ほどの、運転手に、ゲストハウスを紹介されたと言った。
インターネットが、無料でつなげるという。

翌日、そのゲストハウスに移ることにした。
だが、このホテルの倍の料金であることに、後で気づく。

トゥクトゥクの料金は、15ドルだった。
市内観光の真っ当な、料金である。

ホテル料金の、10ドルは、確かに、格安である。
翌日の、ゲストハウスは、20ドル。
だが、私たちには、高いと、思った。
一泊だけして、別のゲストハウスに、また、移ることになる。



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