2010年01月26日

もののあわれ 486

かかる程に、この常陸の守、老いの積りにや、悩ましくのみして、もの心細かりければ、子どもに、ただこの君の御事をのみ言ひおきて、常陸「よろづの事、ただこの御心に任せて、ありつる世に変はらで仕うまつれ」とのみ、明け暮れ言ひけり。女君「心憂き宿世ありて、この人にさへおくれて、いかなるさまにはふれ惑ふべきにかあらむ」と思ひ嘆き給ふを見るに、命の、限りあるものなれば、惜しみとどむべきかたもなし。「いかでか、この人の御ために残し置く魂もがな。わが子どもの心も知らぬを」と、うしろめたう悲しき事に言ひ思へど、心にえとどめぬものにて、うせぬ。




このような、間に、常陸の守は、年老いて、病気ばかりをして、何となく、心細くなり、子供たちに、ひたすら、この女君の事ばかりを、言い残して、何事につけても、ひたすら、この方の心のままに、してあげなさい。私の存生中と変わらず、お仕えしなさい、と、そればかりを、一日中言っていた。
女君、空蝉のこと。
女君は、辛い運命のもとにあり、この人にまで、先立たれて、どのように落ちぶれて、路頭に迷うのかと、思い嘆いているのを、見つつ、命には、限りがある。惜しむ心も、止めるすべも無い。何とかして、この方に、残す魂があるならば、自分の子どもとはいえ、その心も、分からないし、と、気がかりで、悲しいと、思い、口にもするが、思い通りに、生きることが、出来ずに、亡くなった。

うせぬ
実に、あっさりとした、言い方である。
失せた、つまり、死んだのである。

雲隠れ、などの、言い方より、失せぬは、略しているが、失せたのであり、無くなったのではない。
万葉では、亡くなることを、岩根しまける、ともいう。
岩根に、頭を置く。つまり、死ぬことである。

だが、ここで、日本人は、肉体、死体と、霊、魂とは、別に考えたのである。
死体は、忌むべきもの。穢れ、である。
穢れは、気が枯れること。
死とは、肉体の気が枯れる。しかし、魂は、無くならないのである。

失せる、という、言い方にも、物が、失せたように、どこかに、隠れたと、感じ取るのである。

勿論、死は、哀しいことである。
今までのように、問答が出来ない。
わが心のうちでの、死者との、問答がはじまる。

更に、死者の魂は、自然の中に隠れると、考えるので、雲、飛ぶ鳥、飛ぶ蝶などが、死者の代わりとして、慰めになる。





しばしこそ、「さ宣ひしものを」など情けつくれど、うはべこそあれ、つらき事おほかり。とあるもかかるも世のことわりなれば、身一つの憂き事にて嘆き明かし暮らす。




しばらくの間は、あのように、仰ったのだから、などと、情けのありそうな、振りをするが、それも、上辺だけのことで、心のこもらない、対応が多かった。
空蝉は、それも、これも、世の道理であるから、我が身一つの、不運として、嘆き暮らしていた。




ただ、この河内の守のみぞ、昔より好き心ありて少し情けがりける。守「あはれに宣ひおきし、数ならずとも思し疎まで宣はせよ」など、追従し寄りて、いとあさましき心の見えければ、「うき宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはては珍しき事どもを聞き添ふるかな」と、人知れず思ひ知りて、人に「さなむ」とも知らせで、尼になりにけり。




ただ、この、河内の守だけは、昔から、好色な心あり、少し労わるようであった。
守は、父上が、しみじみと、おっしゃっていたのですから、つまらない私でも、疎まずに、何でもおっしゃって下さい。などと、へつらってくる。
そして、呆れた下心が見えたので、酷い運命の我がことと、このように、生きながらえて、挙句の果ては、とんでもないことまで、耳にする。と、心に一つ悟り、誰にも、言わずに、尼になったのである。

あはれに宣ふ、とは、しみじみと、仰るのである。
人の話したこと、言うことも、あはれ、と、くくるのである。
あはれ、の、風景が広がる。






ある人々「いふかひなし」と嘆く。守も、いとつらう、「おのれを厭ひ給ふほどに。残りの御よはひは多くものし給ふらむ。いかでか過ぐし給ふべき」などぞ。
「あいなのさかしらや」などぞ侍るめる。




仕えていた、女房たちは、情け無い話だと、嘆くのである。
守も、辛く思い、私を嫌ってのこと。まだ、先の長いお年なのに、これから、どうお過ごしになられるのか、なとど、言う。
つまらない、お節介だと、などと、申すそうです。

あいなの さかしらや
余計なことを、するというのである。
これは、作者の言葉か。

この段は、短い。空蝉の、その後を、記すのである。

関屋を、終わる。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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