2010年01月15日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 15

パダン、三日目の朝である。

七時から、食事が出る。
私は、ロビーに出て、フロントの女の子に、挨拶する。
シラマッパギ
女の子は、とても、愛想がいい。

今日は、どうしますか
コーヒーと、エッグ

パンの中に、玉子焼きを挟んでくれるのだ。

ロビーを抜けて、中のテーブルにつく。
その間も、従業員が通る。
すべて、男子である。
パギと、挨拶する。

12時間労働をしている。
仕事があるだけで、良いのである。

パダンは、80万人都市である。
だが、今回の地震で、10万人が、職を失う。更に、地震の怖さで、街を出た者も、多いという。現在の人口は、誰も、解らない。

職を失った、若者たちが、街の至る所で、たむろしている、風景を見た。

何せ、街一番のデパートが倒壊したのである。
街の中心部に出掛けたが、デパート周辺では、バザーが、行われていて、大変な混雑だった。

その職員だけでも、大量である。更に、ホテルが、ほぼ全滅である。
三階建てのホテルは、今は、無い。

フロントの、女の子は、言う。
インドネシアは、貧乏な国です。パダンのために、出してくれるお金は、わずか。更に、州政府も、無理です。

多くの倒壊した建物は、そのまま放置されているという、状態である。
街の至る所、瓦礫の山である。

本当は、死者数も、分からないのだという。
近くの村では、土石流に飲み込まれた人が、大勢いるが、政府は、流された人の、捜索を、打ち切った。

私の前に、コーヒーと、パンが、運ばれて来た。

コーヒーは、たっぷりとした、ポットに入っている。
まず、コーヒーを飲む。

他の、客は、いない。

このホテルの、持ち主は、オランダ人である。
それを、任せられている、おばさんがいる。
ただ、いるだけの、存在である。

従業員が、一致協力して、仕事をしている。
大切な職場なのである。

ホテルは、平屋であるから、奥が長い。
更に、意外に、泊り客も、多いと、知る。

中には、パダンを故郷として、ジャワ島などで仕事をする人が、里帰りしても、家が無くなってしまったため、泊まっているという人もいた。

パンを食べて、私は、コーヒーポット、カップを持って、ロビーに出た。
ソファーに座り、タバコを吹かして、コーヒーを飲んでいた。

すると、一人の、若者が、声を掛ける。
英語である。

最初が、面白かった。
日本語の歌が、歌えるというのである。
そして、歌った。
確かに、日本語の歌である。

有名な歌だというが、私には、解らない。
だが、日本語である。

彼は、23歳、ホテルの泊り客の、イギリス人の、サーファーガイドをしている。
更に、彼の、父祖は、日本人である。
ここに、日本軍が来た時、彼の祖父と、祖母が恋をした。

そして、彼の父親が生まれたのだ。

驚いたのは、彼のような、日系三世が、沢山いるということである。
更に、私は、彼の祖父の出身地を尋ねた。
北海道と、言うのではないか。

この、スマトラ島に来て、まさか、北海道という言葉を、聞くとは、思わなかった。
私は、急に、彼に親しみを覚えた。

その彼の、父母は、今回の、地震で、亡くなった。
彼は、三人の下の兄弟たちのためにも、働かなければならない。
特に、被害の受けた村に、住んでいた。

ガイドの仕事は、三日間で、20万ルピア、2000円だ。

彼が、日本語の歌を歌うという、行為に、私は、なにか、胸に迫るものがあった。
彼の中の、日本人の血である。

その時、イギリス人が、部屋から、出てきた。
パギと、挨拶した。
あちらも、礼儀正しく、挨拶する。

握手を求めてきた。
私は、サーファーの初心者で、今回はじめて、ここで、サーフィンに挑戦していると、言った。

私は、日本語で、相槌を打った。

二人が、出掛けた。

その後、日系の彼と、会うことになる。
そして、また、面白い展開があった。
また、そのイギリス人とも、帰りの、ジャカルタの飛行機が同じで、言葉を、交わした。

旅にて、出会う、そのこと、実に面白い。

実は、この旅日記に、書かない話も多い。しかし、それを、全部書いていると、終わらない。省略して書いている。
もし、私が、原稿料を貰う仕事をしていたら、書いていたはず。
報告という、意味で、この旅日記を、書いているのである。




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