2010年01月12日

最後の沈黙を破る 42

霊能力とは、いまだ、未開の分野である。
だから、当たると、評判になると、人が集う。
また、病気治しなども、然り。

私の知り合いが、気功から、スピリチュアルヒーラーになったと、聞いた。
その彼は、そんな世界とは、無縁の存在だった。

それが、ある気功家との出会い、そして、断絶から、彼自身が、その能力を得たのだろう。

更には、霊払いもするという。

霊能力とは、霊的存在によって、成るというものである。
つまり、その背後にある、霊的存在が、関与する。

そして、その関与する、霊的存在が、何者であるのかを、彼は、また、多くの、霊能者は、知らない。

魔的存在の、霊ならば、どうであろうか。

力は、当然、強い。
だから、未来透視も、よく当たる。
病気も、よく治す。

しかし、未来を知らぬ、病気になったというのは、三次元では、深い意味がある。

未来を予測して、当たったとして、一体、何の利益があるのか。

病になることによって、得るものが、多々ある。

それを、霊能力で、取り払うということは、どこか、おかしい。

更には、彼らの口から、神や、仏という言葉が出るときである。
彼らが言うところの、神や、仏とは、何物かを、誰も判断できないのである。

例えば、仏教を、守護するという、インドの神々は、魔神である。

大乗仏教から、それらの、魔神を、仏の教えを、守護する神々、諸天善神と、名づけた。

とんでもない、誤りである。

日蓮宗系は、それらを、真っ当に、善神として、奉るのである。
知る者にとっては、驚きを通り越し、知らないということの、恐ろしさを知る。

魔神は、ことのほか、力が強いゆえに、奇跡を行う。

本来、神や、仏といわれる、霊的存在は、奇跡は、起こさないと、決まっている。
必要ないからである。
自然そのもの自体、生きていること自体が、奇跡である。

その背後の、霊的存在を知らず、単に、能力があるように、錯覚して、多くの罪を犯す。そして、罪の意識さえも、持たないという、アホなのである。

霊能者と、長く付き合いと、必ず、矛盾が起きてくる。
一年前と、今とで、言うことが、違うのである。
一貫していない。

それは、背後の霊的存在に、支配され、いいように、使われているからである。

よく当たるとか、よく病気を治すという、霊能者ほど、それが、多い。

そして、結果、宗教を起こす者もいる。
新興宗教の、出来上がりである。

その特徴は、先祖供養である。
一番、無難な供養を、掲げる。

先祖は、供養するものではなく、崇敬するものであると、知らない。

先祖が、霊界で、苦しんで、子孫に、それを、教えて、障る、というようにことを、平然として言う。

先祖は、先祖であり、子孫は、子孫である。

つまり、私は、私の、自業自得を生きる。
そして、先祖は、生きてきた人生の、自業自得を、受けているだけである。

誰も、他者、先祖といえども、手出しは出来ないのである。

それが、霊界の、仕組みである。

先祖の、苦しみを、取り除くために、供養するという、話は、成り立たない。

更に、神や仏といえども、霊的存在であり、神でも、仏でもない。
それは、単に、霊なのである。

神仏は、妄想である。

霊を、神とか、仏とか、便宜上、呼んでいるだけである。

このような、啓示を頂きましたというが、それが、どこのレベルの霊界の、霊の情報か、本人も解らないのである。

本当に、霊能力がある人は、奇跡も、予言も、病気を治すこともしない。

それでは、何をするのか。

生きることを、実践しているだけである。
例えば、病気を治す能力のある、霊能者は、治るために、すべき、方法を示すのである。
透視能力のある人は、それを、言葉にすることなく、相手が、知る術を教える。

答えないのである。

答える必要が無い。

この世に生まれて、生きているということは、己の問題なのである。
それに、手を掛けるというのは、傲慢不遜である。

傲慢不遜になれるのは、悪霊、魔神の、類と、決まっている。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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