2010年01月01日

ジャカルタ・スマトラ島・パダンへ 1

この旅を、書く前に、インドネシアという国が、まだ、建国60年の国であることを、述べておく。

日本の敗戦と共に、スカルノ初代大統領は、インドネシアの独立を、宣言した。

丁度それは、オランダ軍を追い出した日本軍が、敗戦で、撤退した、その隙間を突いての、独立宣言である。

もし、日本が、大東亜圏という意識を持たず、アメリカとの、戦争もしなければ、インドネシアは、まだ、オランダの植民地とされていた、可能性がある。

というのは、オランダは、日本軍が、撤退した後、更に、植民地化を目指していたからである。

そして、ここが、問題であり、ポイントである。
インドネシアの各勢力が、各地で、オランダ軍と、戦ったのである。
独立を勝ち取るために、である。

それが、出来たのは、日本が、見せた、心意気である。
白人には、適わないと、諦めていた、インドネシアの人々に、日本が、そんなことはない。戦って勝つのであると、伝えたのである。
その行為を、持って、である。

ここに、大東亜戦争、第二次世界大戦の、別な意味がある。

日本の敗戦により、多くの植民地化された、東南アジアの国々が、独立を勝ち取ったのである。

有名な歴史家の言葉を、持ち出すまでもなく、それも、一つの、あの戦争の意味である。

更に、その中に、日本軍から、脱走とされた、日本兵が、その、独立運動の、戦いに、参加したのである。
これは、インドネシアの人々に、更に、勇気を与えた。
日本兵の指導の元に、戦ったグループもある。

その、日本兵は、インドネシアでは、英雄として、讃えられ、奉られている。

各地で、闘争を続けたインドネシアに対して、国際社会が理解を示し、オランダに、再植民地化を断念させた。

そして、1949年に、連邦共和国となり、翌年、1950年に、共和国となって、完全な独立を、果たしたのである。

スカルノは、建国の父と、呼ばれる。

彼は、社会主義政策を進めたが、国内の経済状態が、悪化し、共産党政治に反感を持っていた、国軍との、対立が、深刻化した。
1965年、国連を脱退し、独裁化を強めた。
しかし、同年、9月30日、共産党勢力による、クーデターにより、体制が、崩壊する。

だが、そのクーデターも、国軍によって、一日で、鎮圧された。
この事件をきっかけに、軍司令官の、スハルトが、国の実権を握ることになる。

1968年、スハルトが正式に大統領となり、国連復帰も果たす。

スハルトは、親米路線に、政策を転換し、様々な、プロジェクトを導入して、開発の父と、呼ばれるようになる。

だが、国の利権を、一族で、独占し、30年以上もの、独裁政権をとった。
その、弊害は、大きかった。

1998年、スハルトがまたも、大統領に、選出される。
七期目の任期である。

この、スハルトの、汚職や、不正蓄財は、実に、膨大である。
日本の莫大な支援金や、福祉関係の資金なども、自分の、蓄財にしたのである。

あまり、言いたくないことだが、インドネシアの政治家は、まだ、汚職に関する、罪悪感が少ない。

未だに、スハルトの、行為を、裁くことが出来ずにいるのは、大なり小なり、政治家というものが、スハルトに準じているということである。

さて、続ける。
その後、1997年の、タイバーツ暴落からの、アジア通貨危機により、経済状態が、悪化し、首都ジャカルタをはじめ、国内各地で、スハルト政権に対する、暴動が起こるのである。

大都市では、学生などによる、反政府運動が、激化し、スハルト退陣、政治改革を求めて、多くのデモ行進が、軍の治安部隊と衝突した。

それは、瞬く間に、全国に広がり、一般市民は、この国の、経済、金融を握る、中華系の人々を、襲うようになった。
当然である。

政治家は、汚職、不正蓄財、そして、中華系との、結びつきによる、更なる、利権獲得である。

誰のための、国なのか、と、国民は、問うたのである。

国内には、600万人の、中華系住民がいた。
そのうち、騒動のために、3万人が、国外に脱出したのである。
と、共に、海外に、資金も、流出した。その額、800億ドルである。

インドネシア経済は、更に、悪化することになる。

この、混乱を受けて、スハルトは、次期大統領選には、出馬しないことを、表明したが、民主化勢力は、即時辞任を要求した。

国会前での、座り込みは、5万人にも、達したという。
更に、体制内部からも、スハルト辞任の要求が、出されるようになった。

1998年、5月、スハルトは、ついに、辞任を表明した。
32年間の、独裁政権だった。

その後、副大統領の、ハビビに引き継がれが、スハルトの腹心である。
スハルトは、陰の支配者として、存在することになった。

与党や、軍の内部での、権力闘争も激しくなり、スハルトが、推し進めた、国内移民政策による、軋轢も、表面化する。

ジャワ島などから、移住する民と、以前からそこに住む、先住民の対立が、軍や、警察でも、抑えきれなくなったのである。

加えて、長年、独立運動が続いていた、元ポルトガル領で、キリスト教徒の多い、東ティモールや、マルク諸島、西カリマンタンなどで、対立が激化した。

住民同士の、対立が、いつしか、民族や、宗教対立の形相を、帯びたのである。

数百人規模の、殺戮から、難民が発生する。

こうした、対立激化の、裏には、イスラム国家への、支持を集めるための、策略だったといわれる。

つまり、インドネシアのイスラム化を目指す勢力である。

1999年、ハビビ政権は、東ティモールの独立を容認するという、閣議決定を行う。

そして、その年の、6月の、総選挙では、スカルノを父にもつ、メガワティ女史率いる、闘争民主党が、第一党になる。

10月の、国民協議会は、イスラム組織、ナフダトール・ウマラの、ワヒドを選出し、副大統領に、メガワティを指名した。

そして、2001年7月、ワヒドも、献金疑惑などで、解任される。
国民待望の、メガワティ大統領が、誕生した。

その、メガワティも、期待外れに終わる。
全く、その器ではなかったのである。

国内問題で、政局が、混乱し、メガワティ批判も、噴出するのである。

そして、現在は、2004年に選出された、ユドヨノ大統領が、国民の期待を、背負うのである。



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