2009年12月01日

もののあわれ 431

明石の浦はただはひ渡るほどなれば、良清の朝臣、かの入道の女を思ひいでて文などやりけれど、返り事もせず。父の入道ぞ、入道「聞ゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」と言ひけれど、「うけひかざらむものゆえ、行きかかりて空しく帰らむ後手もをこなるべし」とくんじいたうていかず。世に知らず心高く思へるに、国の内は、守のゆかりのみこそはかしこき事にすめれど、ひがめる心はさらにさも思はで年月ほ経けるに、「この君かくておはす」と聞きて母君に語らふやう、入道「桐壺の更衣の御腹の源氏の光る君こそ、おほやけの御かしこまりにて須磨の浦にものし給ふなれ。あこの御すくせにておぼえぬ事のあるなり。いかでかかるついでにこの君に奉らむ」といふ。母「あなかたはや、京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻どもいと多く持ち給ひて、そのあまり、しのびしのび帝の御妻をさへあやまち給ひて、かくも騒がれ給ふなる人は、まさにあやしき山がつを心とどめ給ひてむや」と言ふ。腹だちて、入道「え知り給はじ。思ふ心ことなり。さる心をし給へ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」と、心をやりて言ふも、かたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。






明石の浦は、這ってでも行けるくらいなので、良清の朝臣は、あの入道の娘を思い出し、手紙などをやったが、返事がない。
父の入道が、申し上げたいこともある。ちょっと、お目にかかりたいと、言うが、承知しないようなのに、出掛けて、兎に角、何もならず、帰るようならば、後姿も、みっともないと、落胆して、行かないのである。
またとないほど、気位を高くしていて、国の中でも、今の、守の一族だけを、偉いと思っているのに、変わりものは、そんなことも、考えずに、年月を送るうち、この君が、いらっしゃると、聞いて、母君に、語ることに、入道は、桐壺の更衣が、お生みになった、源氏の光る君が、朝廷のお叱りを受けて、須磨の浦に、おいでになるとのこと。娘のために、この思いがけない出来事が、あるのだ。なんとかして、こういうときに、この君に、差し上げようと言う。
母は、まあ、とんでもない。京の人の話を聞くと、ご立派な奥様を、何人もおもちで、その上に、まだ、陛下のお后とまで、過ちを犯しなさり、このように、騒がれているような方が、どうして、こんな賎しい、田舎者を思ってくれましょうと、言う。
腹を立てた、入道は、分らないだろう。考えが、違うのだ。その心積もりをしなさい。機を見て、ここにも、おいでいただこう。と、いい気になって、言うのも、頑固者のように見える。
眩しい、ほどに、娘を飾り立てて、大事にしているのである。


面白い話である。
入道は、娘を、実に、大切にしている。
このチャンスに、源氏に、差し上げたいと思うのだ。

あこの御すくせにておぼえぬ事のあるなり
あこは、娘に対する敬語で、前世からの、運命だというのである。
そのように、表現する様が、また、面白い。





母君、「などか、めでたくとも、もののはじめに、罪にあたりて流されておはしたらむ人をしも、思ひかけむ。さても心をとどめ給ふべくはこそあらめ、他派ぶれにてもあるまじきことなり」といふを、いといたくつぶやく。入道「罪にあたることは、もろこしにも、わが朝廷にも、かく世にすぐれ、なに事にも人に異になりぬる人のかならずあることなり。いかにものし給ふ君ぞ。故母御息所は、おのがをぢにものし給ひし、あぜち大納言のみむすめなり。いとかうざくなる名をとりて宮仕へにいだし給へりしに、国王すぐれてときめかし給ふこと並びなかりけるほどに、人のそねみ重くて、うせ給ひにしかど、この君のとまり給へる、いとめでたしかし。女は心たかくつかふべきものなり。おのれかかる田舎人なりとて思し捨てじ」など言ひいたり。





母君は、なんのために、立派な方と、申せど、お目出度い話の最初から、罪に当たって、流されておいでになった方を、よりによって、考えるのですか。それにしても、心におとめくださるなら、ともかく、冗談にも、そんなことは、ありえないことです。と言うと、入道は、酷く、ぶつぶつと言う。
罪に当たることは、唐の国でも、わが国でも、このように、世にすぐれ、何事も、人に抜きん出ている方には、必ずあること。どういうお方だと思うのか。
亡き母御息所は、私の叔父であった、あぜちの大納言の令嬢だ。
大評判の方で、宮仕えに、出したところが、国王のご寵愛を遊ばされること、並ぶものがなかったため、皆のねたみが重く、お亡くなりになったが、この君が、お生まれになったのは、大変、喜ばしいことだ。
女は、気位を高く持つべきだ。
私が、こんな田舎者だと、お見捨てにはならない、などと、言った。




この女すぐたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げにやむごとなき人におとるまじかりける。身のありさまをくちをしきものに思ひ知りて、「たかき人はわれをなにの数にも思さじ。ほどにつけたる世をばさらに見じ。命ながくて、思ふ人々におくれなば、尼にもなりなむ。海の底にも入りなむ」などぞ思ひける。
父君、所せく思ひかしづきて、年にふたたび住吉に詣でさせけり。神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける。




この娘は、すぐれた器量ではないが、優しくて、品があり、頭のよいところなどは、本当に、身分の高い人にも、負けないほど。
我が身の、境遇を情けないものと、諦めて、身分としては、自分を物の数にも、なさるまい。身分相応の結婚は、なおさら、嫌だ。生き残って、頼りにしている、両親に先立たれたら、尼にでも、海の底にでも、沈みもしよう、などと、思っていた。
父君は、何から何まで、大事にし、年に二度、住吉にお参りさせた。
神のご利益を、心ひそかに、頼み思っていたのである。

入道が、源氏と、親戚関係だとは、ここで初めて、書かれる。

源氏の傍には、いつも、女が現れるが、それは、物語を進めるための、ものである。
高貴な身分の、源氏を、主人公にして、もののあはれ、なるものの、姿を、たゆたい、描くのである。

須磨の段は、静かに、終わるようである。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第10弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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