2009年09月04日

伝統について 34

解衣の 恋ひ乱れつつ 浮沙 生きてもわれは あり渡るかも

とききぬの こひみだれつつ うきまなご いきてもわれは ありわたるかも

解衣、とききぬ、とは、解いた、衣である。
そのように、乱れて恋しつつ、流れに浮く砂のように、生きて、私はゆくのだ。

誰が、歌詠みしたのか、分からない歌を、人の口から、口に伝えられて、万葉恋歌として、残っている。
確かに、似たような歌が、多い。しかし、だからこそ、貴い。

人も、我も、同じ人間である。
人類の進化は、共感能力によって、なったという、説がある。
私は、賛成する。

同じ思い、更に、相手の身になって、考える能力、共感性は、人間だけが、持つ能力である。

解いた布のような、気持ちになり、流れに浮かぶ砂のようにでも、恋して、生きるという。それは、恋すれば、誰もが思うことであろう。

人の体験を、詳しく聞いて、それを、経験に高めることが、できのも、人間である。

この、人間の、能力を、歌い上げたものが、万葉集であり、更に、それが、日本の伝統である。そして、ひいては、人類の伝統となる。

人の口から、口へと伝わるということは、共感に他ならない。

その歌の、心に、共感するから、口から口へと、伝わるのである。

梓弓 引きて許さず あらませば かかる恋には 逢はざらしものを

あづさゆみ ひきてゆるさず あらませば かかるこひには あはざらしものを

梓弓を引いて、緩めずに、心を許さなかったならば、これほど、苦しい恋に、逢わなかったものを。

恋は、苦しい。だから、恋はしない。
そんなことは、出来ない。
それが出来るという人は、余程、偏屈なのだろう。
つまり、宗教というものは、皆、偏屈なのである。
恋を、迷いと、断定して、そこから、離れよと、教える。
更に、貴い人間の、欲望を、否定するのである。

万葉は、欲望を、恵みとして、捉える。
それは、実に、正しい。

言霊の 八十のちまたに 夕占問ひ 占正に告る 妹はあひ寄らむ

ことたまの やそのちまたに ゆふけとひ うらまさにのる いもはあひよらむ

言霊の、満ちた、多くの辻に、夕占を尋ねると、占は、正に言う。あの子は、私に、靡くだろう。

黄昏の時刻に、辻に立ち、行き交う人の言葉を聞いて、それを、占いとして、吉凶を判断する。

実に、楽しい遊びである。勿論、当時は、真剣に、聞いたのである。

玉矛の 路行き占に うらなへば 妹は逢はむと われに告りつる

たまほこの みちゆきうらに うらなへば いもはあわむと われにつのりつる

たまほこの道を、歩いて占うと、あの子は、私に逢うだろうと、その言葉は、伝えた。

じつと、道行く人の言葉を、聞いて、自分の知りたい言葉を捜す。
中には、闇に覆われても、納得した言葉を、聞けないことも、あっただろう。

人間とは、何と、愛しいものだろうか。
その、愛しい行為を、誰も、止めることは、出来ない。
いずれ、年老いて、若き日の、ことが、思い出になる。
そして、人生とは、思い出であると、気づくのだ。



posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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