2009年08月14日

伝統について 14

如何ならむ 名を負ふ神に 手向せば わが思ふ妹を 夢にだに見む

いかならむ なをおふかみに たむけせば わがおもふいもを いめにだにみむ

何と言う、神に、手向けすれば、私の恋する妻を、夢にだけでも、見られるのか。

手向ける、とは、供物を捧げることである。
恋する妻とは、何らかの理由で、会えないようである。
夢にでも、会いたいと、願う。

現在の、夢を見るというのと、あの当時の夢は、違う。
夢も、現実の一つである。


天地と いふ名の絶えて あらばこそ 汝とわれと 逢ふことやまめ

あめつちと いふなのたえて あらばこそ いましとわれと あふことやまめ

天と地が、もし、無くなれば、お前と私の恋も、終わるだろう。
しかし、天と地は、終わることがない。
つまり、お前と私の恋も、終わることがない、というのである。

天地がある限り、恋は無くならない。
それほど、慕う恋と言うもの。

月見れば 国は同じそ 山隔り 愛し妹は 隔りたるかも

つきみれば くにはおなじそ やまへなり うつくしいもは へなりたるかも

月を見れば、同じ国にいることが、わかる。しかし、山が、二人の間を隔てて、愛しい妻には、逢いがたいのだ。

愛という、漢字を、うつくし、いとし、と、読ませる。
更に、かなし、とも、読む。

使い方で、微妙に違う意味合いを、持つ。
古代の人は、愛という、漢字に、多くの意味を、与えた。
それが、仏教により、愛は、欲望という、観念を与えられた。
愛欲、愛執である。
物に、執着する心を、愛とした。

そして、戦後、プロテスタント系の、聖書訳で、愛は、与える心という、観念を掲げた。
神の愛である。

仏教も、キリスト教も、愛という言葉を、観念で、作る。
しかし、大和の人々は、融通無碍に、愛と言う言葉を、使用した。

観念を作らないのだ。
観念を作らないと、話が先に進まないという、ものではなかった。
その、融通無碍が、たゆたう心を、醸成してゆくのである。

観念まみれにならないのである。
観念を定めたところから、確定するという、ものではないこと、それが、心であると、知っていた。

さて、観念を作らない事柄で、議論ができるか。
議論は出来ない。
欧米の哲学、思想と、そこが、日本のものの考え方が、隔絶する。

議論をするものではないのだ。
人は、それぞれである。
そして、それを、共感し、受容する。全く違った考え方も、当然あるという、前提である。

しかし、それで、戦いは、起こらない。
戦う必要は、無い。
歌詠みにて、解決する。

采配は、大君、天皇にお任せする。
議論を尽くして、上に、お任せする。
このような、日本の伝統的支配というものは、日本独自のものである。
他国の人は、理解出来ない。
他国は、戦争をして、解決するというのである。



posted by 天山 at 00:00| 伝統について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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