2009年08月06日

神仏は妄想である 195

もう少し、インド思想史の仏教を見る。

空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。この立場を徹底させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。
中村元

その、代表的な、経典が、維摩詰所説経である。ゆいまきつしょせつきょう
維摩詰という在家の資産家が、主人公となり、出家者たる、釈尊の弟子たちを論破して、追及し、畏敬させ、その後に、真実の真理というものを説いて、彼らを指導するという、作り話である。

その、究極の境地を、言葉では、表現できない、不二の法門として、維摩は、沈黙を持って、教えたという。

明らかに、大乗仏教の、小乗を貶める創作である。

その後も、在家の運動を讃える、経典が著される。

それらを、釈尊が、肯定するという、筋書きである。

更に、華厳経が、著される。

事事無碍の、法界縁起の説に基づき、菩薩行というものを、説く。
菩薩行には、自利と利他の二つがあるが、菩薩は、衆生救済という目的が、自利であるから、自利は、即、利他ということになるというものである。

この経典では、菩薩の修行の段階を、十段階に分けて、十地という説にいたる。
第六地のところで、十二因縁を説き、善財童子という者を、主人公に、五十三人の元に教えを乞い、最後に、普賢菩薩の教えを受けて、究極の境地に達するという、創作である。

更に、浄土教の誕生である。
これは、法然、親鸞、浄土宗で、触れたので、省略する。

ただ、念仏によって、死後、極楽に生まれるということで、それでは、現世とは、どういう意味を持つものかという、議論がなされたという。
兎に角、議論の議論をし続けたようである。

そして、
大乗仏教徒は小乗仏教徒を極力攻撃しているけれども、思想史的現実に即していうならば、仏教の内の種々の教説はいずれもその存在意義を有するものであると言わなければならない。この道理を戯曲的構想と文芸的形式をかりて明瞭に表現した教典が法華経である。
中村元

更に、中村元は、
ところで種々の教えがいずれも存在意義を有するのは何故であろうか。それらは肉身の釈尊の所説ではない。
と、明確にしている。

それは、久遠の仏という、意識である。
時間的、空間的限定を超えた、絶対者、諸法実相の理である、仏という、存在であると、認識したからである。

勿論、妄想である。

更にである。
インド、民衆の、本生譚から、取り入れた、人である釈迦仏陀は、永遠の昔に悟りを開いて、衆生を教化してきた存在として、位置づけたのである。
人間、釈迦は、単なる方便であるという、誇大妄想である。

そうして、仏身論というものが、急速に展開する。

法華経の態度が、更に、発展して、大般涅槃行などという、仏教以外の、異端説といわれるものも、取り入れての、経典創作が行われた。

仏教の所説を理解する上で、インド思想史は、欠かせないものである。
それは、仏教というものが、インド思想史において、様々に変転していく過程を見ることで、仏教という、宗教に至る過程が、理解出来るからである。

そして、それは、思想として、認識するが、宗教としての、価値ではない。
また、更に言えば、インド思想史は、思想即宗教という、形になっていったという、ことが、理解出来る。
宗教の成り立ちを知る上で、必要な、教養である。

つまり、宗教とは、作り上げて行くものなのである。

その支持者が、信者となり、信徒となり、次第に、組織化され、更には、建物を建てて、職業宗教家の発生である。

在家信仰活動も、結局は、職業宗教家というものを、生み出したのである。
この、矛盾に、彼らは、答えない。
何故か、既得権益というものを、持つに至ったからである。

建物を建てて、信徒を要すれば、物質的に、豊かになる。今で言えば、金が集まる。それでは、やめられない。そして、堕落以上の、体たらくであり、もはや、その、主である、仏教ならば、釈迦仏陀の、教えは、無に等しい。
ただ、暇な者が、作り上げた、小理屈、屁理屈に、準じて、のうのうとして、教団、教派というものに、甘んじているのである。

更にである。
そこから、新しい団体を作り出して、教祖の、自己顕示欲が、満たされ、それに、集まる者どもが、甘い汁を吸うために、教祖を、祭り上げるという、寸法である。

信者に、段階を設けて、教師や、布教師などの、称号を授けて、更に、教団を太らせる。そこには、高邁な理想などない。世俗まみれである。

政治に関与するに至っては、もはや、手のつけられない、集団になる。
更に、政治家も、それらに、媚を売り、票を集める。
新興宗教の数々に、入信して、票を集める政治家もいるほどである。

商売の基本である、貧乏人から、広く金を集めるという、方法を地で行くのが、それである。

信徒から、集めた膨大な、金で、資産を増やし、果ては、結局、子々孫々に譲り渡す手配をする。

それは、世俗の家系よりも、甚だしく、劣るものである。
こうして、宗教というものが、成り立つ過程を知るのである。
彼らは、何一つ、確定したものを、提示しない。
すべては、人の妄想の故のもの。
それを、金に変換していて、平気である。

宗教により、心が、救われるということは、有り得ない。もし、そうだとするならば、それは、皆々、勘違いである。
勘違いのまま、死に、勘違いのまま、霊として、浮遊するという、悲劇である。
これを、悲惨と言う。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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