2009年08月02日

神仏は妄想である 222

「自由」主義をとる人に対しては「なぜ平等ではなく自由を社会の基礎とするのか」、「平等」主義に対しては「なぜ自由ではなく平等なのか」という反論がすぐに生ずる。これに対して「平等ではなく自由が大事」「自由ではなく平等が大事」であることを客観的に論証するのはなかなか難しく、そこには個人の価値観がどうしても関わってくる。そうなると、「正しい社会のあり方」を示すのは、「人それぞれの価値観」による主観的な問題となってしまい、それを超えた客観的な条件を見出すことができなくなる。
内藤淳

正しい社会とは、何かと、考える議論は、法哲学の領域で、正義論と呼ばれ、古代ギリシャ時代から、様々な、理論、主張がなされてきた。

自由と、平等という、価値を根本に据える、社会制度が、正しいと、言われた時期、今も、そうであるが、果たして、それが、正しいのか。

また、一時期の、共産主義という、理念も、今では、崩壊している。

自由な社会というのも、経済的、社会的不平等とつながりやすく、格差社会に、陥りがちである。
また、共産主義の、平等も、経済活動が停滞して、社会の、活力や、豊かさが、失われる。

そもそも、「個人が自分の能力と努力に応じた成果を享受する」というのは「正しさ」の重要な要素だと考えられるが、「能力に応じて、働き、必要に応じて受け取る」という理念はそれに反してしまう。そうした意味で、「誰もが平等である」ということ自体に、「正しさ」と衝突する側面があることは否定できない。
内藤淳

ここで、釈迦仏陀の、人々の福利という考え方は、より多くの人が、または、すべての人が幸福になる道ということである。

これに近い考え方が、最大多数の最大幸福という、原理を掲げる、功利主義である。

この功利主義は、19,20世紀に、多くの人の支持を受けた。

この、功利主義に対しても、批判がある。
その最大の批判は、多数の人の幸福の裏には、少数の人を、犠牲にするというものである。

それでは、釈迦仏陀の、福利にはならない。

そして、進化倫理学も、そこで躓く。

では、誰にとっても、利益的な社会とは、どんな社会なのであろうか。

そこで、内藤淳氏は、利己的という、原点に戻って、考えるという。

・・・大前提は、「人間は自分の利益に向けて動く」ことにある。この場合の利益が「生存・繁殖とそのための資源獲得」を指すことはそこで言った通りで、個々の人間が求める具体的な資源の中身は、お金だったり土地だったり地位だったりと多様だが、いずれにしろ人間は、そうした資源の獲得に向けて「利己的」に行動するというのがここでの話の原点である。
そんなふうに「利己的」な個々の人間にとって、「あるべき」社会とは、何よりも自分が利益を得られる社会である。いかに崇高な理念が実現されていようと、どれほどの言葉でそのすばらしさが強調されようと、その中にいて「私」が生きるための資源を得られない社会では、「私」にとってちっともすばらしくない。そこにいて自分が無事に資源を確保でき、生存と繁殖が図れる社会であることが、「正しい」なり「よい」なりとポジティブに位置づけられる社会の条件である。
内藤淳

ということになる。

しかし、問題は、それぞれの人の利益が、しばしば、衝突することである。

私は、儲かるが、あなたは、損をするという、簡単なカラクリである。

「私」にとって利益になると同時に、「あなた」や他の人にも利益になるという、利益獲得機会の配分が、テーマになるのである。

そんな、都合の良いシステムがあるのか・・・

内藤氏は、こう述べる。

それは「その社会のメンバー全員に一定の利益(資源)獲得機会が配分されること」である。
と、言う。

みんなが幸福な社会の、みんなは、全員のことである。

どんな人にも、その機会が、得られる、行き渡るような、制度や、ルールが、作られることである。
全員に、配分される社会が、正しい社会であると、する。

ここから、私の言葉で、書くが、この世は、地獄であるから、必ず、自分だけが、富を独占したいという、強欲な者が現われる。
他の人に、配分したくないという人である。

必ず、そういう人は、いる。
生まれながらに、どうしようもない、魔界人である。

だが、そこで、独占していると、それは、増えませんよという、囁きがあると、考えるのが、進化倫理学である。

独占により、上位の人が得られる、利益は、目先の短期的利益であり、資源獲得機会を、みんなに均等に配分することで、結局は、利益になるのだという、壮大な、考え方である。

それを、内藤氏は、解り易く、解説する。

それは、省略して、先を続けることにする。

何故、人が、集団生活をするのか、が、問題である。

個々人が、バラバラで、暮らすことよりも、集団で、暮らした方が、自分の生存、繁殖、資源獲得に、遊離であると、人が気づいたのである。

人間は、普遍的に集団生活をする。
内藤淳

人間の天敵は、脅威を克服した他の人間の集団が、最も、脅威なのであると、内藤氏は、言う。

戦争である。

「自分の利益」に向けて動く人間は、単独でいたり少人数でいたりしては他の人間集団に襲われ、食料や土地を奪われたり、女性を掠奪されたりするので、それに対抗して自分たちの資源を確保するために集団生活をする。これを個々のメンバーかの立場から言うなら、自分が生存して各種の資源を確保するためには、まず「他集団の脅威」から身を守らなくてはならないので、その利益のために、単独ではなく集団で暮らす。
内藤淳

そうすると、集団に中に、支配者や、権力者が、現われる。
さて、すると、次の、段階は、どのようなことになるのか。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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