2009年08月01日

神仏は妄想である 221

道徳というのは、結局のところ利害損得で成り立っている。道徳に従って「すべき」ことを為し、「すべきことでない」ことをしないのは、「自分の利益」になる。もちろん、現実には、必ずしもその通りにならず、泥棒したのに誰にもばれなくて丸儲けしたというケースも出てくるだろうが、原則として、道徳に従って行動することは「自分の利益」になる。と同時に、それは相手にとっても利益であり、このようにして、「私」にとっても「あなた」にとっても、自分が行為者の立場でも相手の立場でも妥当する「利益獲得の方法」として道徳は成立している。道徳とは、「自分の利益」に向けて動くようにできている人間が、血縁や互恵に基づいて集団を作り社会生活をする中で、まさにその目的を成就する、そのための行動の基本原則なのである。
内藤淳

その、道徳、それぞれの、利益を社会が、監視また、罰則を定めて、それぞれの、利益を守る、道徳の、補完を、法が、行うというのが、現代社会、法治国家である。

刑事、民事、共に、それらの法は、道徳を、補完する。

・ ・・われわれは、道徳を身に付け、「べし」「べからず」の意識を内面化する。もっとも、この点、進化倫理学では、人間はもともと先天的に道徳的な意識や感覚を備えているという主張もあり、道徳的に「こうすべき」という規範意識が先天的・生得的なものなのか、それとも個々人が後天的・経験的に身に付けるものなのかは、そこでの大きな論点でもある。
内藤淳

ただし、先天的とされる場合も、後天的な経験や、教育の影響は、絶大である。

ここで、もう一度、釈迦仏陀の、倫理観である、諸悪莫作衆善奉行という言葉を、振り返る。

般若心経、能除一切苦 真実不虚 のうじょいっさいく しんじつふこ、の、部分である。

一切の苦を取り除くことができる。それは、空想でも、幻想でもなく、ダルマ、法による、摂理である。ということになる。

この苦は、顛倒夢想、てんどうむそう、ということから、現われる、苦、である。

それは、社会を形成した時に、人間が望んだ、秩序のことである。

この秩序を維持するために考えられたのが序列です。この序列を制度化したものが階級や身分です。そして人種や性別や長幼や貧富や地位や身分などを縦の関係で分ける序列という思想が定着しました。しかしこうした序列という思想は後に差別の原因になります。
藤見紀雄 般若心経の思想


倫理という言葉を使用するにしても、釈迦仏陀の、倫理と、バラモンの倫理では、全く違う。

「倫理」という言葉が使われているときその「倫理」がどんな思想に基づいているかで内容が異なるのです。近代以降の国々はベンタムの思想による「倫理観」の影響を強く受けています。このように「倫理」の内容も社会的な観念の影響を強く受けて様々であるために釈迦牟尼は「倫理」の根拠を「ダルマァ」に求めたのです。
藤見紀雄

進化倫理学では、宗教というものを、一端、置いて、倫理学という学問から、研究されている。

それぞれの、地域や、国、民族による、倫理というものは、相違する。

進化倫理学には、大いに、共感するが、更なる、追及を求める。
宗教に変わる、学問としての、成果を期待する。

シッダールタの誕生したバラモン教の社会でも人間の尊卑を測る物指しは獲得された権益に置かれていました。釈迦牟尼の提言はその社会の思想に対しての反逆だったのです。
藤見紀雄

価値の変換を測った仏陀は、理性と論理に裏打ちされた、知恵、般若波羅密多、パンニャーパーラミータである。

つまり、
現実を丁寧に観察し、帰納的な思考をした上で倫理的な妥当性を検証し、倫理的な妥当性に添った思想を演繹することによって現実的な提言を繰り返したのです。
藤見紀雄
ということになる。
顛倒夢想こそ、人々の福利を、妨げる元凶である。
つまり、それは、観念の中の、正常な心象を破壊するものだからである。

進化倫理学で言うところの、利益とは、対等の原理であると、私は、判断する。
自他を差別しない。
つまり、利他行為も、そこによって、行われる。

序列の原理をはじめとした、様々な、歪な原理の中では、利他行動も、利益を持つものとは、思われないのである。
対等であるから、こそ、利他行動も、利益を獲得することが、できるのである。

対等の原理というのは自他を差別することなく福利の保証を一元化することによって実現する思想です。この思想はその社会を構成する人々が「自分のことだけを心配する気持ち」をもっている間は実現しません。しかしこのような社会の形を決定する「原理」というのは人為的な原理ですから自然の法則ではありません。このような原理は情報によって広められたある種のヴァーチャルリアリティーに過ぎません。人々がこのようなヴァーチャルリアリティーによって形成された知識に見切りを付ければ序列の原理に縋り付く謂われはなくなります。
藤見紀雄

恐ろしいことは、
人々をヴァーチャルリアリティーに誘い込むシミュレーターはそれを恰も自然の法則に従った至上の世界であるかのようなプロパガンダを用意して情報操作を行います。そして人々に自身で考えるよりは提供された情報を素直に記憶して他人より少しでも多くの知識を身に付けることが自分にとって最も幸福なことだと信じ込ませます。
藤見紀雄
である。

そして、
序列の原理というのは何時その基準が変わるか人間には判りません。ある序列の原理が別の序列の基準の序列の原理に変われば折角昇った序列も元の木阿弥になってしまいます。一つの文化の中でももて囃されている具体的な知識が別の文化においても有効であるか否かは判りません。この不安を解消することができるのは自他の差別をなくし、対等の原理を実現する外にないのです。
藤見紀雄
となる。

これが、般若心経の、空の思想なのである。

釈迦仏陀の、思想に基づいた、倫理観を実現することが、浄土なのである。

つまり、今までの、般若心経講義が、いかに、御伽噺の域を出なかったのかが、解るというもの。

現実逃避のような、説教に、明け暮れた、日本仏教愛好家たちには、そろそろ、退出していただく時期が来た。

私が言う、神仏は妄想である、は、まさに、彼らの、神仏である。
私は、神仏が、人間であることを、知っている。

釈迦仏陀も、人間に、仏を観たのである。
西方浄土など、あるわけが無い。

釈迦仏陀は、死後の世界のことについては、一言も、言っていないのである。

死後の世界は、死んでからで、十分であり、今は、今、目の前の、生きることを、生きるのみである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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