2009年07月29日

神仏は妄想である 258

タントラにおけるヤントラとか、マンダラと同じく、卵形をした「ブラフマーダン」や、球形をした「サラグマラ」、あるいは「シヴァ・リンガ」といったイメージは、全体世界を悟ったときにあらわれてくる。ブラフマーンダの正しい概念では、全体世界は卵の形で表される。女性原理つまり活動のシンボルであるシャクティの子宮「ヨーニ」のなかに立つシヴァ・リンガは、よく知られているが、これはあらゆる運動と震動の根源なのである。
ムケルジー

タントラの、教えの基本は、実在とは、分かちがたい全体である、との、考え方である。

これが、宇宙的な意識として、示される。

それが、シヴァとシャクティとの結合であるという。
シヴァと、創造力のシャクティとは永遠に結びついたまま、二つに分けられない存在としてある。

宇宙的な意識には、本質的にみずから進化したり退化したりする能力がひそんでいる。もちろん個々の人間にも、この宇宙意識を見につけ、それと同化するような潜在能力がある。この宇宙意識を直感的に知ろうとするのがタントラの目的である。個人というのは、離れ孤島のようなものでは決してなく、それぞれが全宇宙的な図式にはめこまれたものなのである。
ムケルジー

インドに行き、少しばかり、そのような修行に興味を持ち、大半の人が、精神的におかしくなる。
それは、このような、タントラ修行をした、霊たちが、関与する。

更に、ある種の、特殊能力などを、身につけたりする。
勿論、それは、魔界関与のものである。

タントラには、肉体、精神、霊魂と、様々なレベルで、一体となったり、または、別々に、全感覚を、呼び覚ます方法が数多くあるという。

ムケルジーは、
悟りへの道は、自己完成をめざすものでなければならないが、それは否定するとか、逃避するという方法では達成されるはずもない。
と、言う。
つまり、平たく言えば、信じろということである。

全体世界、全ての経験を完全に映しているのが、シヴァとシャクティであり、それは、男性と女性である。

つまり、瞑想によって、個人と宇宙、男と女という、二つの極が、完全に合体する。そして、それによって、全き世界を悟ることになると、いうのである。

人は、一つに結合した、シヴァとシャクティになる。それが、悟りであり、その状態を経験すると、恍惚たる喜び、アーナンダを感じるのであるとの、説である。

ヒンドゥーでも、仏教でも、究極の到達点は、二つの完全な、結合であると、考える。

しかし、全く、ご苦労なことである。
何ゆえに、男と女として、生まれてきたのか。
それを、完全に無視して、男と女の合一により、全体世界とか、宇宙の意識と、同化するという、実に、馬鹿馬鹿しい考え方を、延々と演じてきたということである。

以前も書いたが、人間の体は、宇宙の縮図であるという、タントラの考え方がある。
外界と、内部世界を同じものとして、直観する最高の要諦の一つに、クンダリニー・ヨーガがある。

クンダリニーとは、体に潜むとされる、宇宙エネルギーで、三巻き半とぐろを巻いた、力強い宇宙の女性エネルギーを表す蛇の姿で描かれる。

そのエネルギーが、休止の状態から目覚め、種々の意識の段階をへて、人体内を上昇してゆく。そのシンボルは、ミクロ宇宙としての、脊柱に沿って、位置する、霊魂センター、つまり、チャクラといわれる箇所である、そこを上る。

その、意識の変転は、支配神、マントラ、宇宙の要素、動物のシンボルなどで記された、蓮華形のチャクラとして、描かれる。

脊柱の基底から、頭頂へ上り、そこで、最終的に神と結合するという。

クンダリニー・ヨーガを通して、瞑想のうちに、生まれ出る霊魂の流れは、内部宇宙と、外部宇宙を合体させつつ、無限に続く。

確かに、それは、あるだろう。
自律神経訓練法などからも、意識を集中させることにより、様々な、症状を改善する方法がある。

ここで、この方法も、信じるという、心的活動が必要であるということ。

時間をかけて、壮大に作られた思想である。
そして、それを、信じて行うこと。

ここで、霊魂の云々という言葉から、人間に備わる霊魂の存在を、認めない人は、全く、関与できない。

まだまだ、タントラの世界を、眺めることにするが、空海が、起こした、真言密教というもの、全く、このタントラからのものである。

改めて言えば、仏教タントラを、輸入したといえる。

つまり、仏教も、タントラの伝統を、受け入れて、それを、行うことで、その存続を図ったのである。
つまり、それは、仏教を超えてあるものだったと、いえる。

当然、釈迦仏陀も、それは、知っていたし、また、実践しただろう。
座るという行為は、すなわち、座禅である。

仏陀が成道したというのは、菩提樹の座りである。
それは、ヨーガの一種である。

三蔵法師玄奘も、天竺に出掛けたのは、その、ヨーガの法を知るためである。
ただ、玄奘は、その理屈、理論のみを、学んだのみ。

結局、インド思想の、タントラを知らずに、インドから発生した、宗教は、理解できないということになる。

実に深いものであり、日本の仏教を奉ずるもの達には、仰天である。

念仏や、題目やら、少しばかりの座禅などは、吹き飛ぶ。

全く、その本質を知らないことになる。
理屈だけが先行して、言葉遊びに始終するのである。

だが、私は、このタントラの思想に、危険を感じている。
これは、特殊体質の人間が、できるものであり、通常の、普通の人が、こんな世界に入り込んだら、簡単に言うと、精神病の世界に入ることになる。

実に、危険な、行である。

君主危うきに近づかずである。

健康のために、体を動かす程度の、ヨーガをやっている分にはいいが、このような、奇怪な世界に入り込むのは、魔を呼び寄せることになると、断言する。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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