2009年07月27日

神仏は妄想である 256

究極的には、神聖な悟りから更に、神聖な悟りへと発展してゆく、直感の学問であり、それを通じて、神聖な知識が示される、精神の行法、それが、タントラといわれる。

ここに、アレッと、思う言葉がある。
更に、神聖な悟りへと、発展するのである。

つまり、悟りとは、悟り続ける行為ということになる。
それでは、禅の言う、大悟とは・・・
カーッと、悟るということは、無いということであり、それは、妄想であり、迷いであるともいえる。魔境ともいう。

とんでもない、勘違いか・・・

タントラには、悟り切ったということはない。
終わりの無い旅なのである。

シャクティの進言によって、シヴァが、この世にもたらしたといわれるが、シヴァが登場すると、どうしても、ヒンドゥー教に引っかかる。

さて、タントラは、精神生活の理論と、実践との、両方によっている。
理論は、ニガマとして、実践は、アーガマとして。

アーガマは、シヴァから、その妃パールヴァティーに話し掛けるという、形式をとったタントラであり、二ガマは、逆に、シヴァに語りかける形式である。

アーガマは、人間のうちに眠る宇宙的な力、クンダリニーを目覚めさせる、タントラの秘教的な部分である。

ムケルジーは、
実際的な行法と科学的な考え方をもつタントラは、いわば道徳をこえている。
という。

それは、天からのお告げであり、心や魂の、神秘を示し、人間を本来の姿に、目覚めさせるという。
だが、人間の、本来の姿というものを、知る人がいるのか。

ヒンドゥー・タントラと同じように仏教タントラでも、男性と女性とは、本来の姿からいえば、方便と般若つまり行動と知恵であると信じている。
ムケルジー

悟りには、純粋な知恵すなわち般若と、無限の行動性すなわち方便もしくは大悲の二つの面がある。
鈴木大拙

ヒンドゥー・タントラでは、シヴァが受動的な力と考えられているため、シャクティは能動的な力とされている。シャクティはシヴァの内在的な原理なのである。その他の点では、ヒンドゥー教と仏教の神々は同じものといってよい。
ムケルジー

というより、仏教は、ヒンドゥー教に飲み込まれたのである。
仏陀も、ヒンドゥー教の、一つの神としてある。

タントラの文献はたいへん豊富であるが、その多くはまだ翻訳されていない。現存するタントラ文献で重要なのは、650年ころできたとされる「秘密集会タントラ」である。おそらくは、大乗仏教の有名な学者であるアサンガによって作られた最も古い仏教タントラの一つで仏教が滅び去って禁欲的な秩序が崩壊したさいに生まれた「秘密会議」の産物であったために、そのように名付けられたともいう。
ムケルジー

もう一つの、文献も、仏教起源である。
文殊師利根本タントラである。

1000年頃の「ルドラヤーマラ」1100年頃の、「プラフマヤーマラ」は、ヒンドゥー教のタントラである。

タントラの科学的考え方は、形而上学に似る。
その中に、儀礼と芸術が一つになり、科学が教理に自由を与え、タントラの儀式に経験的な側面をもたらした。

タントラははじめからある目的をもち、宇宙の本体にも関心を示しているが、それは紀元前500年頃の、「ヴェーダ」のサーンキヤ数論体系や、紀元前2000年から1000年頃の、バラモンの正統派の思想と溶け合った枠組みをそのまま受け継いだまでである。
ムケルジー

実に、このタントラの、妄想も、甚だしいものがある。
例えば、三種のグナという、三つの、グナが、人間の背骨の基底で眠る精神的、霊魂的エネルギー、クンダリニー・シャクティと、出会うと、そのエネルギーが目覚め、人体内を
蛇のように上昇し、最終的に、人間を解脱へ、導くという。
ただし、この場合の、人体とは、観念的な、目に見えない、肉体をいうというから、呆れる。

面白い考え方は、
物質界の運動のプロセスは、つねに空間と時間と因果とに関連していると考えられる。時間とは、「過去」と「今」との区別はあるものの、一つにつながったものである。連続する時間のなかでは、単なる一瞬だけが真実であり、宇宙全体はこの単なる一瞬のなかで進化していく。その他のものは、過去も未来も一時の潜在的な現象に過ぎない。空間は時間と同じように、単なる相対的なものであり、相互関係あるいは位置関係に基づいて構成されていると考えられる。
ムケルジー
とある。

古代インド思想では、音、その基礎である、震動の重要性が、知り尽くされていたという。

音は、空間の特殊な性質であるとする。
それゆえ、物質面から見た音は、物体が、機械的に衝突した場合、分子のなかに震動が生じ、次々に、周囲の、空気分子に突き当たり、その結果、音を作り出すと、考えた。

音は、波が海に広がるように、空間を広がりゆく。そして、連続した、同心球状のフィラメント層のかたちで、放射しつつ、増幅されるという。

そして、音は、微妙に弱まってゆく度合いで、識別されると、考えた。

この音に関しての基礎は、タントラで、スポーター・ヴァーダとして、述べられる中心的教義で、儀式の重要なタントリック・マントラの基礎とされている。
つまり、真言と、訳されるものである。

音節の繰り返しによって、震動するリズムが、肉体の中に生じて、霊魂の世界を呼び覚ますと、いわれる。

余談である。
念仏も、題目も、更に、繰り返し、同じ文句を唱えるというのは、一種の自己催眠に入るのである。
それを、霊魂の世界を呼び覚ますとは、評価のし過ぎである。
特殊な、精神状態に陥る事を、霊魂の世界に・・・とは、言い難い。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。