2009年07月22日

悲しみを飲み込んだハノイへ 7

ホテルに戻り、裸で過ごす。
それが、一番、疲れを取る。

ところが、二階の部屋から、向こう側の建物の、窓が見える。
最初は、誰もいないと、思っていたが、驚いた。
ベランダに女性が、出ていたのである。

と、いうことは、こちらの窓も見えるということである。
あーーー、向こうは、嫌なものを、見たと、思ったであろう。

そこで、私は、下着を、探した。
だが、下着は、着ていたものだけで、一枚も無い。
つまり、自分の着替えを、持って来なかったのである。

はっと、思い、支援物資の、バッグを開ける。
確か、下着があったような気がする。
一つの、バッグに、男物の、下着、パンツが、五着入っていた。
助かった。
支援物資を、頂いて、なんとか、この旅の間は、大丈夫だった。

実のところ、私の格好は、支援物資の、衣服より、破綻したものを、着て歩いている。
そのせいで、犯罪に巻き込まれないとも、言われる。

着物以外の時は、タイパンツで、その格好は、タイ人が、寝る時のものだそうだ。
つまり、パジャマ姿で、道を歩いているということ。
変な、おじさん、である。

ベッドに横になったり、起きたり、ガイドブックに目を通したりと、うたうたと、過ごした。

昼ごはんは、最初に行った、ホテル近くの店に出て、フォーを食べた。
フォーの発音も、実に難しいが、私は、日本語の、フォーで、通した。

店員たちは、非常に親切である。
ところが、互いに英語が通じない。
そうなると、笑うしかないので、笑っている。

昼間は、女の子が多く、夜は、男の子が多い。
15歳から、働いている。

一人の、男の子と、ようやく、英語が通じて、話した。
ハノイ近郊の村から、出て来たという。
学校は、もう無いという。つまり、最低教育で、働きに出たのだろう。

日本で言えば、中学、高校生である。

ハノイは、ホーチミンと比べると、とても、町並みが綺麗である。
それは、まずゴミが無いこと。
いつも、誰かが、掃除をしている。
本当に、ゴミが少ない街である。

これは、長年に渡る、伝統であろう。
儒教の影響を受け、更に、社会主義の教育を受けて、国民性が、出来上がった。勿論、そんな簡単なものではないだろうが、自然と身についたものである。

一人の意識が、全員になると、このようになるのだと、改めて、感じた。
一人一人の意識の、持ち方が、全体を作る。

また、戦争が始まっても、ハノイの人々は、誰もが、銃を持ち、戦うのだろう。

そういう、気概がある。

二時を過ぎた頃、コータが、戻って来た。

バッチャン村については、コータが、報告すると思うので、私は、特徴的なことだけを、書く。

矢張り、子供に、ミニカーを差し出すと、いらないと、拒否されたという。しかし、その子のおばあさんが、出て来て、子供に、貰うことを許すと、その子は、コータを追いかけて来たという。
そして、それを、受け取った。
欲しくても、親の許しがなければ、貰わないというのは、ハノイだけではなかったのである。

陶芸の村は、素晴らしく、コータは、人々と仲良くなり、少しばかり手伝ってきたというから、面白い。

そして、衣服も、すべて、差し上げてきた。
最初は、遠慮していたが、そのうちに、矢張り必要なのであろう、どんどんと、貰う人が増えたという。

この陶芸品は、街中で売っているが、相当叩かれて、買われるらしい。
食べていければいいと、いった雰囲気で、のんびりとしているようである。

コータは、バッチャン村で、昼の食事をしたという。
それでは、夕食まで、ゆっくりと、休むことにした。

ハノイでの予定は、終わった。
後は、ホテル近くの、英霊を奉る廟に行き、祈りたいと思った。
それは、夜の食事の前に、行うことにした。

明日の朝は、早くホテルを、出る。
空港までの、車の手配をすることにした。
朝、九時の飛行機であるから、六時に出ることになる。

最後の食事は、最初に出掛けた、ホテル近くの、食堂ですることにした。
高級でもなく、屋台でもない。
中級とでもいうレストランである。

水の値段が、3000ドンから、8000ドンの幅があることを書いたが、その他に、色々と、面白いことがあったので、それは、別にまとめて、書くことにする。

日本人からは、お金が、取れるという、見本のような、事態に遭遇したことを、紹介する。

矢張り、ベトナムでも、日本人は、金持ちだという、意識が強い。
それは、ホーチミンでも、そうである。
ホーチミンで、同じ水を、一ドルと言われた時には、驚いた。
一ドル、つまり、19000ドンである。これは、あまりに、暴利である。



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