2009年07月22日

神仏は妄想である 251

ここで、少し空海を、見ることにする。

ほとんど、無名の、私度僧に過ぎなかった空海が、唐から、戻り、筑前で、三年間の待機をしなければならなかった。

だが、時が来た。

朝廷や、貴族たちの目が、冷たかったが、嵯峨天皇の即位により、空海は、注目されることになる。
唐の文化に、非常に関心を持った、嵯峨天皇の配慮により、空海は、一躍時代の、寵児となるのである。

天皇の、保護の元、高雄山寺を中心に、密教を広め、弘仁三年、812年には、最澄らに、灌頂を与えたのである。
あの、最澄に、灌頂を与えた・・・
つまり、最澄を従えたのである。

その後、高野山を開き、真言の道場とし、更に東寺を下賜された。つまり、天皇から、頂いたのである。

名声と、権勢の中で、62歳の生涯を閉じる。

その間の、活動は、密教に留まらず、文学、美術、書道、教育、建築、灌漑治水、医療など、ありとあらゆる、文化面に、及ぶ。
実に、教祖足りえる、活動である。

だが、その、天才的能力の、空海が、何故、密教を選んだか。
いや、密教の修行によって、天才になったのか・・・

桐山氏は、密教の修行によるというだろうが、私は、空海の、生まれ持った、天性の才能という。

もし、空海が、時を得なければ、どんなに、天才であっても、世に出ることは、出来ない。それだけの、運を、得て、生まれた。

空海は、勝手に修行していた時に、名も知らぬ沙門、おおむね、修験道の者であろう、から、虚空蔵求聞持法を、受けたといわれる。
しかし、確かなことは、解らない。

つまり、空海の創作と、考えてもいい。

虚空蔵求聞持法は、後に、中国で知ったものだが、それを、すでに、授かったという方が、面白い。また、謎めく。

空海の、訪れた、長安では、最新流行の、仏教だったということも、ある。

716年に、長安に着いた、善無畏、ぜんむい、が、大日経を伝え、720年に、金剛智が、金剛頂経を伝えた。

前者の系統では、一行が出て、大日経の解説を、為し、その思想を解明した。
解明とは、解釈であるから、自己申告である。

後者は、不空が、現れて、更に多数の、経典を、請来したという。
その弟子である、恵果が、空海の師である。

恵果は、両方の系統を、統合しようとしたと、いわれる。

顕教、けんぎょう、つまり、密教以外の教えでは、満足しなかったのが、空海である。

それらは、単なる、知識の学問であった。

空海は、それよりも、実際的な、能力を得たかった。
その能力とは、仏になるというもの、つまり、即身成仏するという、密教の、修行である。いや、方法である。

すでに、四国で、即身成仏していた、空海は、その根拠を得たかったと、私は、考える。

勿論、即身成仏というのは、観念である。

空海は、密教は、法身仏の説法だと、理解する。
つまり、仏直々の教えである、と。

顕教は、応仏、化仏という、仏の、手前の段階の者が、教えたもの。
それは、言葉は、顕かであり、簡略であるというもの。

しかし、密教は、法身仏の、説法であり、密蔵である。
言葉は、秘密で、奥深く、真実を、説いている。

もし、そうであるならば、鎌倉仏教などは、子供だましである。

言葉遊びに、始終する、単なる、思索、思考の、遊びである。
まあ、その通りなのであるが、秘密の言葉による、真実を説くものとは、また、薄ら、馬鹿馬鹿しいのである。

要するに、何とでも言える。

密教を説く、法身仏は、究極の仏であり、衆生の能力などとは、お構いなしに、最奥の真実を、直接、説くというのである。

それが、無常の生死流転の世界を、超えて、真理の世界が、開ける・・・

仏陀にほぼ近い境地の人や、それにつぐ十段階の菩薩も、仏の室に入ることはできない。まして小乗のものや、凡夫では、誰が仏の堂に昇ることができるだろうか、と、空海は、言う。

だから、秘密の教えなのである。

詐欺師、空海の、本領発揮である。
空海は、その、十段階を、説いている。

最後の、秘密荘厳心が、密教であり、その前の、九段階は、顕教であるというのだ。

だが、実は、天台も、法華経において、仏の最奥の真理が、表明されている。その世界に達してみれば、それまでの、教えも、すべて法華経に至る道であると、する。

また、華厳経では、仏が、悟りを開いたばかりのとき、人々の理解能力に関係なく説かれた、悟りの世界を、ストレートに説いたもので、その世界に入るには、長い修行の過程を必要とすると、説くのである。

仏教が、統一された、教義を得ていない。滅茶苦茶であると、西洋の宗教学から、言われるのは、当たり前である。

更に、釈迦仏陀の、仏なのか、久遠実成の仏なのか、色々ある。

要するに、仏教の仏とは、人それぞれの、嗜好なのである。

それは、神仏というもの、すべてに言える。
信仰している人それぞれの、神仏が、現れる。

つまり、極限すれば、私の神仏は、いずれ、私に行き着くのである。

私が、それであった。
神仏は、私であったと、なるのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。